中曽根首相側近が株取引で1億2千万円 濡れ手で粟の大儲け 朝日新聞の“ど真ん中”スクープ  朝日新聞(1990年1月) [ 調査報道アーカイブス No.57 ]

首相官邸のHPから

◆首相経験者に関する“ど真ん中”のスクープ

中曽根康弘氏(故人)が首相の座にあったのは、1982年11月〜1987年11月の約5年間だった。その中曽根氏をいわば“直撃”する調査報道スクープは、1990年1月1日の朝日新聞に掲載された。新年の朝刊1面である。

「中曽根元首相側近名義で株取引 1億2千万円の差益」「10万株譲った1カ月後、高値で買い戻す」という大見出し。記事を少し、引用しよう。

中曽根元首相の政治団体、山王経済研究会元会計係の太田英子さん(46)名義で、昭和62年8月から9月にかけて、株買い占め集団として知られるコーリン産業=現光進、小谷洸裕(戸籍名、光浩)代表(52)=と「国際航業」株10万株の相対取引が行われ、わずか1カ月で約1億2000万円の差益が太田さん名義へ渡っていたことが、31日までに朝日新聞社の入手した資料と関係者の証言でわかった。当時、国際航業株はコーリン産業の買い占めで株価が高騰しており、問題の株取引は、この買い占め劇に乗った形で、巨額の利ザヤが渡されるという、極めて巧妙なものだった。小谷氏、太田さんともこの取引を認めている。中曽根元首相周辺には、リクルート事件でも61年9月、政治家で最も多い2万9000株の未公開株が、太田さんらの名義で譲渡されており、その1年後に同じようなぬれ手で粟(あわ)の株取引が、行われていたことになる。

ほんの2年余り前で一国の最高指導者だった実力者側に対し、1億円を超す資金が濡れ手で粟の形で渡っていたー。これほどの“ど真ん中”のスクープは、そうそうあるものではない。しかも記事には、株取引を裏付ける書面が印影もそのままに掲載されている。それにも大きなインパクトがあった。

中曽根康弘氏側近の株取引を報じた朝日新聞の紙面

◆「政治とカネ」をあぶり出した山本博氏の調査報道

この取材を手掛けたのは、社会部記者だった山本博氏(故人)らの取材チームだった。山本氏はこの前後、竹下登政権を崩壊に追い込んだ「リクルート事件」報道、政商・小針暦二氏と政界をめぐる大スキャンダルとなった「福島交通事件」報道、ゼネコンの談合、平和相互銀行事件など「政治とカネ」にまつわる調査報道を次から次へと手掛けた。1990年前後に「政治とカネ」の問題が一気に拡大したのは、山本氏を中心とした調査報道が大きな威力を発揮したためだ、と言っても過言ではないかもしれない。

山本氏の著書『朝日新聞の「調査報道」』によると、中曽根氏側近の株取引をめぐる取材は、1989年秋にスタートしたという。政治団体・山王経済研究会の会計係が不透明な株取引に加わり、会計係側が「巨額の利益を得た」という情報だった。その後の展開について、山本氏はこう書いている。

特ダネがモノになるかならぬかの第一の分かれ道は、まずここである。情報キャッチはよくあること。それがただの情報、噂で終わるか、確実なネタになるかは、証拠と証言を得られるかにかかっている。

モノになるかならぬか。その五里霧中の中で一進一退を繰り返しながら、山本氏は取材を進める。ほどなくして、取引が実際にあったことを示す決定的な証拠、相対取引の「有価証券取引書」2通のコピーを手に入れた。取引当時、中曽根氏は現職の総理大臣である。かつてない大問題になる可能性が十分にあった。山本氏はすぐに取材班をつくり、若手の記者4人と取材を本格化させていく。関係者への丹念な取材、「有価証券取引書」の筆跡鑑定などを行い、記事化にこぎつけた。

◆「裁判になるような記事は書くな」と上層部 それでいいのか?

この報道については、記事掲載から20日ほど後、中曽根氏自身が朝日新聞社を相手に「名誉を毀損された」として、全国紙などに謝罪広告の掲載を求める訴訟を起こした。中曽根氏は「記事は、国際航業株の相対取引による1億2000万円の差益が、取引当事者の太田英子でなく、自分に帰属したとの心証を与えるが、自分や自分の政治団体が受け取った事実はない。名誉を著しく傷つけられた。予想される衆院選への選挙妨害の意図は明らかだ」と主張していた。裁判は朝日新聞社側が勝訴。その後、中曽根氏が控訴した二審・東京高裁では、中曽根氏側が何ら請求しないことなどを条件とする和解が成立した。

「中曽根元首相側近名義で株取引 1億2千万円の差益」の記事をめぐっては、裁判のほかに、朝日新聞社内での“抵抗”もあったという。筆者(高田)は生前の山本氏と何度も会い、調査報道に関するプロセスを直接伺い、記録に留めた。その中で、山本氏はこう言っている。

裁判が終わったあと、(上層部に)「こういう記事は書くべきではない」と言われました。裁判を起こさせるような記事は書くな、という意味です。しかし、あの記事に事実関係の間違いは一つもなかった。その点は判決も認めている。だから、中曽根氏の訴えは棄却されたのです。それなのに、あんな記事は書くべきではない、と。要するに、面倒がいやだったわけです。私は「そんなことを言っていたら、調査報道なんてできません」と反論しましたが。

山本氏によると、1990年代の半ばごろから、そうした空気は一気に強まった。それは朝日新聞に限ったことはでない、とも強調した。その傾向はいま、ますます拡大し、今や動かし難いものとなって、組織ジャーナリズムを覆っているように思える。

山本氏はまた、「記者という商売は、個々の人間の力量の積み重ね。何かを誰かに教えるということではありません。取材方法とか、調べ方とか、テクニカルなことは、簡単なこと。別にどうというものではない」と何度も語っていた。

調査報道を遂行するには、取材のノウハウや技術以上に大事なものがある、ということだ。それは何か。山本氏の回答は、また別の機会に紹介しようと思う。

(フロントラインプレス・高田昌幸)

■参考
『朝日新聞の「調査報道」』(山本博著)
『追及・体験的調査報道』(山本博著)

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