【追う!マイ・カナガワ】鎌倉のコッホ碑、昔はどこに?(上)少年時代のロマンを追い掛け

大泉さんが少年時代に愛読していた「かまくら子ども風土紀」

 鎌倉・稲村ケ崎にあるドイツ人医師ロベルト・コッホ(1843~1910年)の記念碑。結核菌やコレラ菌を発見し「細菌学の祖」と呼ばれる博士の石碑が、約40年前まで別の場所に立っていたことはあまり知られていない。移設前に周辺を探し回ったが「とうとう見つからなかったので調べてほしい」と、少年時代にやり残した調査の依頼が「追う! マイ・カナガワ」取材班に寄せられた。手掛かりは大ざっぱな1枚の地図。新型コロナウイルスに脅かされる令和の今、1世紀を超えるロマンを追い掛けた。

◆「子ども風土記」

 「おそらくこのあたりなんですけどね」

 依頼人で不動産鑑定士の大泉雅孝さん(52)=川崎市=が指さしたのは少年時代の“相棒”だった古い地図。子ども向けの「かまくら子ども風土記」に掲載されていたものだ。

 1970年代に鎌倉で育ち、姉から譲り受けた風土記をかばんに入れ、名所巡りに明け暮れた大泉さん。地元を知り尽くす面白さにはまり、「載っている場所をこの目で見て、コンプリートしたかった」と友達と遊ぶときも肌身離さず持ち歩いた。

 玉縄城跡や唐糸やぐらなどに足を運んだが、唯一たどり着けなかったのがコッホ記念碑だった。江ノ電・極楽寺駅周辺に何度も探しに行ったが、地図があいまいで場所がよく分からず、未完に終わった。

 「他の場所はあまり覚えていないのに、見つからなかった石碑のことだけは大人になった今も、頭の片隅に残っているんですよね」

 石碑は12年から83年まで同駅南東にある霊仙山のどこかに立っていたらしい。「石碑があったのは来日したコッホが景色を気に入っていたという場所。ずっとこの目で見てみたかった」。大泉さんは記者にこう思いを託した。

◆極楽寺で聞き込み

 熱い思いに応えるべく、記者は現地へ飛んだ。極楽寺駅で下車し、極楽寺1丁目で聞き込むと、70代の女性が記憶をたどってくれた。

 「子どもの頃、花火を見るのにはとても見晴らしが良くて登っていました。そこに石碑みたいなものがあった」。登ったのは60年も前というが、草木が伸びて道なき道だったという。

 コッホ記念碑が稲村ケ崎に移設されたのも、霊仙山の地盤が脆弱で保存が危ぶまれたためであった。83年の移設当時、本紙は重さ2トンの石碑がヘリコプターで運び出されたことを伝えている。

 その風景を「畳一枚ほどの石碑が空を飛んでいた」と覚えていた50代の女性にも出会った。

 2人に石碑跡への行き方を聞いたが、「今はさすがに山に入る人は誰もいないからやめたほうがいい。道もないし、迷子になるよ」と忠告された。慎重に取材を進めることにした。

◆記念碑の歴史学ぶ

 石碑跡を探す手掛かりを得るために、移設に携わった鎌倉医師会に連絡を取ると、鎌倉内科診療所の正山堯院長(84)が歴史に詳しかった。

 コッホが来日したのは1908(明治41)年6月。その弟子で、伝染病予防や細菌学の発展に貢献した北里柴三郎博士(1853~1931年)が招いた。

 滞在中、講演などを行いながら、鎌倉・由比ケ浜の「鎌倉海濱院ホテル」に約1カ月滞在した。北里や同医師会の勝見正成初代会長が鎌倉を案内し、「ナポリより美しいと鎌倉の海を気に入ったそうだ」と正山院長。富士山や江の島を眺められる霊仙山に足繁く通ったという。

 「ただ、2年後にコッホは亡くなり、追悼と功績をたたえる思いを込め、北里や勝見たちが石碑を建てたんだよ」

 12年にコッホ夫人を招いて建立した当時の様子から石碑があったのは山頂の開けた場所のようだが、正山院長も「山の中にあると聞いたが足を運んだことはない」という。

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