【追う!マイ・カナガワ】鎌倉のコッホ碑、昔はどこに?(下)コロナ禍に受け継がれる教え

鎌倉海濱院ホテルで記念写真に収まるコッホ(左)と北里=1908年(鎌倉内科診療所提供)

 鎌倉・稲村ケ崎にあるドイツ人医師ロベルト・コッホ(1843~1910年)の記念碑。結核菌やコレラ菌を発見し「細菌学の祖」と呼ばれる博士の石碑が、約40年前まで別の場所に立っていたことはあまり知られていない。移設前に周辺を探し回ったが「とうとう見つからなかったので調べてほしい」と、少年時代にやり残した調査の依頼が「追う! マイ・カナガワ」取材班に寄せられた。手掛かりは大ざっぱな1枚の地図。新型コロナウイルスに脅かされる令和の今、1世紀を超えるロマンを追い掛けた。

◆霊仙山に初挑戦

 場所はよく分からないが歴史は学んだ。断片的な情報を頼りに、夏のある日、霊仙山に初挑戦した。

 記者は小笠原諸島の自然の中で育ち、学生時代はラグビーでならして体力には自信がある。コッホが見た景色を─と勇んだが想像よりも山は険しかった。

 その日は快晴も数日前の雨で地面はぬかるんでいた。急勾配を木々の枝や根っこをつかみながらよじ登るが、すぐに泥だらけ。尾根をとにかく前進するが、大きな巣を張るコガネグモが眼前に!。斜面では足を取られ、擦り傷も…。

 ようやく海が見えるポイントに到達。これがコッホが愛した景色か。しかし石碑跡は見当たらず。どうやら違う場所に来てしまったようでリタイアした。

◆秋にリベンジ

 やはりルートが分からないとダメだ。インターネット上で情報を探すと、石碑跡に到達した人がいるではないか。単独行を諦めて打診すると「お供してもいいですよ」と返信が来た。

 リベンジしたのは秋。案内してくれたのは鎌倉でガイドをしている東ミホさん(54)。4度挑戦の末、単独踏破したという東さんは、スイスイ進んでいく。

 天候も良好で足取りも軽い。前回断念した場所の手前で東さんが教えてくれた。

 「このヤツデが目印。左に曲がると石碑跡があるんです」。体全身で荒々しく伸びた草木をかき分けながら進むと、灰色の平たい石碑がポツリとたたずみ、移設を知らせていた。

 「あ、あった…」。蚊やブヨに刺されながらも、歴史の現場に出合えた喜びと心地よい疲れに浸った。

◆時代を超えて

 コッホについてもっと知ろうと、北里柴三郎記念館(東京都港区)を訪ねた。「北里はコッホの全てをまねた。サインの『K』まで筆跡は似て、コッホ大好き人間だった」と医学博士の森孝之さん(67)。

 北里は1886年からコッホの下で6年間、研さんを積んだ。今ほど医療が発達しておらず、疫病で一日に何万人も命を落とす時代。「研究は実社会に還元するべきというコッホの教えに従い、国民への教育も怠らなかった」。北里が1913年に考案した『結核退治絵解』は、「密を避ける」「飛沫(ひまつ)を防ぐ」など、新型コロナウイルス禍の今に通じる予防手段を啓発している。

 2024年には門下生の野口英世からバトンを受け、北里の肖像画が新千円札に刷られる。「忘れられる理念も形に残れば引き継がれる。紙幣を見て、今もコッホの教えが医療を支えていることを知ってほしい」

 コッホがこの世を去って111年。生前の1891年に設立されたドイツのコッホ研究所は、同国の感染症対策機関として今もコロナ対策に尽力する。

◆取材班から

 宝探しに成功した記者が依頼人の大泉さんに報告すると、「見つかったんですね! ぜひ行きたい。子どもの頃味わえなかった達成感を味わうのが楽しみ」と心躍らせていた。

 オミクロン株が懸念される今、1世紀前にこの地で医学の発展を誓い合ったコッホと北里の理念を継承しなければ。

 収束の見えないコロナ禍に光明が差すことを願い、大泉さんと二人で霊仙山へ向かうことを約束した。

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