<社説>開戦から80年 惨禍繰り返さない決意を

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 太平洋戦争の開戦から8日で80年を迎えた。 なぜ開戦を避けられなかったのか。この問いに真摯(しんし)に向き合い、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」(「日本国憲法」前文)する日としたい。

 歴史家の間で転機は、1936年に起きた陸軍青年将校らによるクーデター未遂「2.26事件」とされる(「太平洋戦争への道」)。

 事件をきっかけに、内乱に対する恐怖が人々を萎縮させた。軍は政治に口出しするようになり、議会は軍の意向に左右されるようになった。言論統制を強化する「不穏文書臨時取締法」も公布され「言論の自由」が完全に奪われた。

 言論が萎縮する中で、翌37年に日中戦争に突入した。国民の人気が高かった近衛文麿首相は事態を収拾できないどころか、和平の道を自ら断ち切ってしまった。中国に巨額の経済的権益を持っていた米国との関係は悪化した。

 40年9月、日本は日独伊三国同盟に調印した。第三国(事実上米国)との間に武力衝突が起きると相互に軍事的援助を行うことになった。米国との関係は決定的に悪化した。

 近衛は同年10月に全ての政党を解散して大政翼賛会を発足させた。国民を戦争に動員する組織として力を発揮。リベラルとみられた政治家の下で、政党政治を終わらせた点は留意すべき教訓だろう。

 翌41年4月、日米両政府は対立を打開するため交渉を開始する。日本政府の基本政策は「戦争瀬戸際外交」(吉田裕氏)と指摘される。外交上の危機に際して、戦争をも辞さないという強い意志を示すことによって、相手側の譲歩や妥協を引き出そうとした。

 交渉のさなかの41年10月、検閲基準が改訂された。米国を過度に刺激しない方針を転換し、米国の対日政策を批判する記事や英米との衝突もあり得るとする記事の掲載を許可した。これにより新聞や雑誌に対米強硬論をあおる記事があふれた。開戦へ向かわせたメディアの責任は重い。

 議会も米国を非難し、断固たる行動を政府に促す決議を可決した。世論や議会の動向は、海軍首脳の中の対米開戦慎重派を、開戦に同調させる結果となった。

 日本で強硬論の台頭は、米国の対日政策を硬化させた。瀬戸際外交の当然の帰結であろう。政権を投げ出した近衛に代わって陸軍大臣東条英樹が首相に就任した。軍の都合によって外交交渉に期限がつけられ、11月の御前会議で天皇は開戦を決意した。こうして和平の機会は失われた。

 一方、沖縄では開戦の1年前の40年12月、琉球新報など3紙が統合して沖縄新報が創刊された。もはや「言論機関としての新聞の歴史は終わった」(「琉球新報80年史」)。

 80年の節目を迎えた今、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義という憲法の理念の実践こそ求められている。