【スポーツビジネスを読む】バスケ版「チャンピオンズリーグ」の仕掛け人 東アジアスーパーリーグ、マット・ベイヤーCEO 前編 EASL実現までの道のり

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ついにベールを脱いだ……としていいだろう。

アジアのバスケットボール・ナンバー1決定戦とも呼ばれる東アジアスーパーリーグEASL)はBリーグとの提携を1日に発表、来年10月12日の開幕が決定した。

EASLはバスケ界の「アジア・チャンピオンズ・リーグ」と考えると理解しやすい。2022-23シーズンよりスタートし、日本、韓国、フィリピン、中華圏からそれぞれ上位2チームずつが参戦。4チームずつに分けられた2つのグループにて開催される「グループリーグ」では、ホームアンドアウェー方式により、グループ内の上位2チームを決定、計4チームのみが決勝トーナメント「ファイナル4」にてアジアの頂点を争う。来年の開幕戦以降、グループリーグは毎週水曜に行われ、11月下旬からのワールドカップ予選によるブレークをはさみ、2023年2月8日までに計28試合が開催される。

東アジアスーパーリーグのファースト・シーズン・フォーマット  提供:EASL

同様の試みは2017年、「The Super 8」という呼称でスタート。千葉ジェッツ(現・千葉ジェッツふなばし)が初代チャンピオンに輝き、富樫勇樹がMVPを獲得した。翌年には「The Terrific 12テリフィック12)」という形に進化。こちらでも琉球ゴールデンキングスが優勝を遂げたが、2019年開催時には、残念ながら日本チームによる3連覇を逃している。こうした一連の大会が国際バスケットボール協会FIBA)に認められ2020年8月、EASLとして10年間の公認、支援が決定された。

このEASLの仕掛け人が、同CEOマット・ベイヤーさんだ。

ウィスコンシン大学出身のベイヤーさんは2007年よりNBAミルウォーキー・バックスにてキャリアをスタート。中国語堪能のため、同年にドラフトで指名された中国選手、イー・ジャンリャン(易建聯)の通訳も務めた。

こうした縁が手伝い、中国に移り住み、培ったバスケットボールの人脈から、マーケティング、PRおよび政府関係の仕事にも従事。外国企業として初めて、中国政府公認エージェンシーに指定されるに至った。もちろん、中国バスケットボール協会CBA)とも緊密な関係を築き上げ、CBAの多くのチームと契約、マーケットの実に40%の選手との契約を保持している。

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■アジアにおける国際的リーグの必要性

NBAでキャリアをスタートし、中国のバスケットボール・リーグを長年眺めてきた中で、「中国のバスケ・ファンがどうバスケを楽しむか、中国ファンの興味のプライオリティに気づきました」と言う。そのプライオリティは以下の順だとか。

1.中国代表チーム
2.NBA
3.CBA(国内リーグ)

順番は少々入れ替わるかもしれないが、日本のバスケットボール・ファンに置き換えても、この3つの要素に大きな変動はないのではないだろうか。

しかし、残念ながら国際的な代表戦はそう多くはない。サッカーにおける日韓代表のライバル関係は、キラーコンテンツのひとつながら、試合数は少ない。バスケットボールも同様だ。

「(バスケの)代表チームの試合は滅多にありません。特に中国対韓国、中国対日本のように近隣国とのライバル対決は、2年か3年に1回という状況です。中国のファンも、これには不満なんです。そこで、オリンピック並みに試合の存在感を上げるためにはどうすればいいか考えました。国際的な競争が見られる機会をもっと増やすにはどうしたらいいのか。(今回のプレジェクトは)そこがスタートラインでした。あとはどうやって実現させるかの問題でした」とベイヤーさんは、EASL誕生の着想について明かしてくれた。

テレフィック12で盛り上がる観客 (C)AESL

スポーツビジネスに従事していると、こうした国際的リーグへの取り組みは想像を絶する難易度であり、気が遠くなるほど。各国リーグとの交渉も簡単ではなかったはずだ。その点について訊ねるとベイヤーさんは「すごぉぉぉぉぉく長いプロセスでしたよ」とカジュアルに応えてくれた。

「まず2015年末までに各国、各地域の差異について検証を重ねました。ビジネスモデルの形や規模などについて。各マーケットのニーズを理解し、(その国の)人々が何を好み、コマーシャル的成功とは何かを知り……こうした項目を多面的に検証しました。最重要だったのはロードマップをどう敷くか、ファースト・ステージでどこまで進捗させるか、何をどう具現化させるかでした」とスタートラインについて聞かせてくれた。

■琉球ゴールデンキングス木村達郎社長との出会い

こうした国際的な座組を構築する際、日本のドメスティックな協会などはなかなか具体的な検討に入ってもらえないものと私自身には刷り込まれている。ゆえに、日本の対応はどうだったのか非常に気になった。

「最初の訪問は非常に重要だったと思います。2016年から各国を訪問するようになったのですが、その初期段階で足を運んだのがBリーグでした。私たちにとってラッキーだったのは、まだBリーグが始まったばかりだった点です。ご存知の通り日本ではプロが2リーグに分裂していて、Bリーグとしてひとつのプロ・リーグの形成期でした。ちょうど日本の(バスケ界の)人々が、新しい何かを求めている時期だったのが、幸運でした。Bリーグは短期での成長を目指していましたから、ポジティブな反応をもらえたのだと思います」とやや意外な回答が戻ってきた。

「ただし、具現化のためにはプロアクティブな人、前向きな人を見つけなければならないとも思いました。そうして出会ったのが、琉球ゴールデンキングスの達郎さん(沖縄バスケットボール株式会社木村達郎代表取締役社長)でした。彼は自ら沖縄に移住し、BJリーグ時代にチームを興し、2023年の(バスケの)ワールドカップで受け入れ先となるようなキング・アリーナを作り上げ、クリエイティブで新しいことにチャレンジする、私たちをサポートしてくれるような人物。そこからがスタートでした」と自分たちの着想をサポートしてくれるような人々を真っ先に見つけ出したのだとか。

琉球ゴールデンキングスでプレーする岸本隆一

こうしてベイヤーさんたちは日本の次に、フィリピン、韓国、台湾と調整にまわった。各マーケットで初日から「これはいいアイディアだ」と言ってくれる人たちと出会い、新企画のステークホルダーになってくれたメンバーは、アライアンス先であり、サポーターであり、友人であり、そんな人物ばかりだったという。時として難しさの違いはあったがどの国、地域でも、そういう人物を見つけられたそうだ。

あらかじめ開催国は地理的にシンガポール、香港、マカオに目星を付けていた。「この3都市は地理的には各国のリーグに属していなかったこと、外交的にも地理的にも各国からアクセスがよかったこと、そして大イベントをホストする能力を備えていたから」と明確な理由があった。

■香港から北京へ飛び、マカオ開催を決める

中国との良好な関係性と少しばかりの幸運もあった。ベイヤーさんは北京体育大学の講師でもあったので「2016年6月に古い友人でもある大学の学長に電話を入れて『マカオに親しい知り合いはいないか』と訊ねました。すると『ちょうど明日、マカオのスポーツ局のトップと夕食を一緒するんだ』と言われ、私は香港から北京に飛んで戻りました。これが素晴らしい出会いとなり、イベントについて内々の承諾を得るとともにスポーツ局のサポートも受けることができました。さらにスタジアムのあるカジノ、統合型リゾート(IR)の協力までOKをもらえました」と、まさにとんとん拍子で開催地が決定したという。

カジノ側としてはこうした大規模イベントが、そのPRになるというメリットを踏まえての流れではあった。それでも「IRが私たちのビジョンを買ってくれたおかげで、マカオ政府もそのビジョンに賛同してくれました。おかげで最初のイベントをマカオで難なく実施することができました。また各国への映像中継を計画していたのですが、このカジノの設備が素晴らしく、オンエアの成功に繋がりました」とマカオとの関係性が初年度成功の鍵だと語った。

ロードマップのほんのスタートに過ぎなかったこのイベントは、千葉ジェッツの優勝で幕を閉じ、アジア圏で2100万人の視聴者を集める成功に終わった。イベントの後、マカオのスポーツ局から連絡があり、最大のスポンサーとしてのオファーと、次イベントからの共催が決まったのだとか。

「突如、私たちはマカオでもっと大きなスポンサーをかかえる企業なりました。そして、何よりも(こうした大口スポンサーを得ることで)イベント開催のリスクは一挙に軽減したのです」とバスケットボール版UEFAチャンピオンズリーグを立ち上げる上で、大きな前進を遂げた。

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著者プロフィール

松永裕司●Neo Sports General Manager

NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 東京マラソン事務局広報ディレクター/ マイクロソフトと毎日新聞の協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Director of Sportsなどを歴任。出版社、ラジオ、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験を持つ。1990年代をニューヨークとアトランタで過ごし2001年に帰国。