開戦の日、フィリピン空襲に向かう大編隊目撃 91歳元台湾少年工「戦争は嫌、永遠の平和祈る」

元台湾少年工の東俊賢さん(本人提供)

 太平洋戦争中、神奈川県内を中心に日本全国の軍用機工場で働いた台湾少年工。その一人、東俊賢さん(91)=台湾在住=は80年前の1941年12月8日、台南市でフィリピン空襲に向かう日本海軍の大編隊を目撃した。横須賀市の海軍の研究開発施設「航空技術廠(しょう)(空技廠)」で特攻機の試作などに携わり、戦争に翻弄(ほんろう)された青春時代を送った。今も80年前の朝を忘れない。「戦争は嫌です。永遠の平和を祈ります」

 突如、校舎の屋根をかすめるように、数十機のゼロ戦と黒い爆弾を抱えた爆撃機が現れた。小学5年生の時だった。「師走なのに非常に暑く、半袖の制服で登校しました」。教室で先生から開戦を知らされた。

 台南には海軍の基地があり、フィリピンの米航空基地を攻撃した。陸軍も上陸し、翌42年5月、フィリピンの米軍は降伏。司令官だったマッカーサーはオーストラリアに脱出し、再起を図ることになる。

 日本軍は消耗戦で、航空機の大増産を狙う。その拠点の一つが座間、大和市に新設した「高座海軍工廠」で、B─29対策の防空戦闘機「雷電」を生産した。徴兵による人手不足で働き手を台湾の10代の少年たちに求め、志願した約8400人が採用された。14歳の商業学校生だった東さんは空技廠の溶接工としてロケット特攻機「桜花」やロケット戦闘機「秋水」の試作機の製造に携わった。

 少年工は空襲や飢え、寒さに苦しみ、約60人が亡くなった。それでも、地元の日本人と食べ物を分け合い、助け合って生き延びた。今も「第二の故郷」と日本を愛する東さん。「戦後日本の平和と復興がうれしかった。これからも日本との友好に頑張りたい」と話している。

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