「神風タクシー」 ノルマと低賃金の末に事故多発 高度経済成長の入り口での調査報道 朝日新聞(1958年) [ 調査報道アーカイブス No.64 ]

◆速度オーバー、信号無視、強引な追い越し、急旋回…

敗戦から10年近くになろうとしていた1950年代後半、日本は高度経済成長の階段を駆け上がろうとしていた。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたったのは、1956年だ。経済活動が勢いを増すにつれ、道路には車があふれ始める。「神風タクシー」とは、そんな時代を象徴する存在だった。「タクシー業界用語辞典」によると、神風タクシーはこう説明されている。

速度オーバー・信号無視・強引な追い越し・急旋回といった“神わざ”でくぐり抜けていくタクシーを「神風タクシー」と呼んでいた。だれが言い始めたのかは分からないが『週刊新潮』昭和31(1956)年3月4日号に、東京に来た外国人がタクシーの疾走ぶりに驚いてそう呼んだ、というのが最初だと云われている。

交通事故による死者が激増していくのは、この数年後からだ。「神風タクシー」はその交通戦争の前兆とも言えた。

朝の自動車ラッシュ=東京・丸の内、1954年(東京都のHPから)

1957年に始まった新聞協会賞は翌58年、この「神風タクシー」を追放しようというキャンペーン報道に授与された。担ったのは、朝日新聞東京本社の社会部である。いったい、どんな報道だったのか。日本新聞協会の『新聞研究』1958年9月号に掲載された「神風タクシー取材メモ」から引いてみよう。書き手は小林幸雄氏である。

この数年、自動車の激増とともに交通事故はぐんぐん増えてきている。東京だけでも毎日「死者○人傷者○人」という掲示が出され、交通禍は都民の大きな恐怖になっている。

連日多数の犠牲を出しながら、事故絶滅への一般の関心ははなはだ薄い。申訳のような“交通安全週間”があるだけだ。自動車がふえれば、事故が多くなるのは当然といった風で、当局の抜本的な対策もないし、私たちの新聞もまた、交通事故には冷笑すぎた。タクシーが人をはねとばしたくらいでは紙面にも出ない有様である。

私たちは足元の大きな問題を見逃しているのではなかろうか。殺人犯の追及に対しては社会面は惜しみなく紙面を割くが、それに何百倍する社会的な殺人は放置されたままである。

◆東大4年生・サッカー部主将、はねられ死亡 ほとんど報道されず

社会部でそんな議論が始まったころ、東京・本郷の東京大学赤門前で、24歳の東大生がタクシーにはねられ、死亡する事故が起きた。工学部の4年生の五十嵐洋文さん、サッカー部の主将。友人とタクシーを拾おうとして車道に立っていたところ、背後からタクシーにはねられた。タクシーは制限速度を超過し、交通法規も無視して走っていたのだという。

ところが、この事故はほとんど報道されなかった。『新聞研究』の一文にある通り、当時は交通事故で人が死んだ程度では記事にならないケースがたくさんあった。東大生の事故についても、報道したのは毎日新聞だけ。それも1段ベタ記事で、「東大生ひかる」という短い内容だった。

朝日新聞社会部の記者も、発生時には誰も注目してなかったという。事故に気づいたのは、後日、東大総長が「いま一番気になっているのは、南極の宗谷のことと、五十嵐君の死である」と発言したのを知ってからだった。ここで記者たちは自問する。「神風タクシー」の存在も知っていたのに、自分たちの報道は盲点だらけだったのではないか、と。

その後、記者たちは五十嵐さんの実家である鮮魚店「魚勝」で遺族の声を取材し、背景事情を警視庁で取材し、「聞いてくれ魚勝の嘆きを」という大型の記事を1958年2月8日朝刊に掲載した。取材班のキャップは、後に報道キャスターとして名をはせる故・入江徳郎氏である。記事はかなりの反響を呼んだようだ。「魚勝」には全国から300を超すお悔やみと励ましの手紙が届く。それによって取材にも弾みがついたという。

前年の1957年、交通事故による死者はすでに全国で7575人に達している。負傷者は12万人超。しかも事故総数の4分の1はタクシーが当事者だったという。クルマの所有者は大都市圏に集中していた。当時の朝日新聞は地方に印刷拠点を拡大させておらず、「全国紙」というより「都市圏紙」だった。そのため、交通事故とタクシー問題は自分事の大テーマでもあった。

朝日新聞1958年2月8日朝刊の社会面記事

◆厳しいノルマ、低賃金 運転手の苦境にも耳を傾けて

タクシー運転手の日常は、今と変わらず、当時も厳しかったようだ。夜中の2時、3時。乗務を終えた運転手をつかまえ、取材する。彼らのたまり場になっていた深夜営業の喫茶店に行き、話を聞く。疲れ切った運転手たちが明かすのは、劣悪な労働環境だった。ひたすら走行しなければ、乗務後のメーターチェックで厳しく理由を問われる。売り上げが少ないと、会社の係員がそれを受け取らない。かと言って持ち帰ると、横領で告発される。

2月から始まった5回連載の初回は「ひかれ損」だった。きちんと保険に入ってないタクシー会社もあった。2回目は「怖いノルマ」。以後、「暴走を生むもの」「たよりない官庁」「事故を防ぐには」と続いた。連載でこの問題が可視化されると、国会でも議論が始まった。その焦点は、運転手の固定給が低すぎることと、走行距離のノルマがきつすぎることだった。1日500キロの走行を課せられたケースも珍しくなく、国会では320キロに制限すべきだと指摘されている。そして関係閣僚はそれぞれに対策を約束し、業界団体も是正へ動いた。

◆国会や関係省庁が動き、報道で社会は変わった しかし…

4月になると、朝日新聞は「神風タクシー その後」と題する連載を掲載した。「保険金が安すぎる」「外国ではどうか」といった内容である。前掲の『新聞研究』に掲載された一文によると、このキャンペーン報道には目に見える成果があった。走行キロの制限や休養施設の拡充などが義務付けられ、その年の4〜6月のタクシー事故はそれまでの3カ月に比べて50%も減ったのだという。

「神風タクシー」の連載記事

調査報道は、ときに社会を動かす。報道で社会は変わる。「神風タクシー」追放キャンペーンは、日本におけるその先駆的な一例かもしれない。『新聞研究』への寄稿で小林幸雄氏はこう書いている。

しかし、残念なことにはこの成功も、また“一応”にすぎない。またぞろネジの元がゆるみはじめたのではないかと言われ出した。私たちは前後2回の“神風タクシー”で終わらせてはいけないと思っている。足元のことは、つねに見つめることを忘れてはいけないのだから。

足元のことはつねに見続けていないといけない、それが記者の役割なのだー。そう記されてから、半世紀以上になる。死亡交通事故は1970年ごろに年間1万6000人前後という最悪の状態となった後、上下を繰り返しながら減少。2020年は2839人にまで減った。だからと言って、課題が解決したわけではない。社会の様相が変わると共に新たな問題も生まれた。

いま、高齢者や認知症のドライバーによる悲劇的な事故が、列島各地で繰り返されている。「足元のことを見続けよ」という命題は、現代においてもしっかり生きているはずだ。

(フロントラインプレス・高田昌幸)

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