「怨嗟のごとく、恋慕は完済されるべし」 恨みを晴らすように愛情も報われるべき。暴力の先にある愛情 【インドネシア映画倶楽部】第32回

Seperti Dendam, Rindu harus Dibayar Tuntas

1980年代のインドネシアのある田舎町で繰り広げられる暴力に満ちた世界。その泥臭い世界に入り込んでしまうと、作品の魅力を十分に味わうことができる。実力派作家エカ・クルニアワンの作品を原作に、デジタル主流の中で敢えてフィルム撮影し、日本の撮影監督の芦沢明子氏も撮影に携わっている。

文・写真:横山裕一

新型コロナウイルス感染が沈静化しつつあるのを受けて、2021年11月頃から映画館が一斉に再開された。12月初旬に一時帰国から戻った筆者も早速映画館へ。館内の電光掲示板にはインドネシア映画の新作ポスターがずらりと掲げられ、そこには嬉しいことにコロナ禍前の雰囲気が蘇っていた。若干早い気もするが、チケット購入も現金支払いが可能になっていた。

新作インドネシア映画作品のポスター掲示が並ぶ映画館内(2021年12月、ジャカルタ)

目移りしながらも選んだのは話題作でもある「怨嗟のごとく、恋慕は完済されるべし」。意味深なタイトルだが、恨みの感情が復讐という形で晴らされるように、たとえ困難な状況下の愛情や恋慕も確実に報われるべきである、という意味が込められているようだ。

物語は1980年代のジャワ島の田舎町。死をも恐れぬ粗暴な青年アジョはひょんなことから、華奢ながら喧嘩の滅法強い女性イトゥンとの格闘を通して愛し合い結婚する。しかしアジョは暴力的な一方でインポテンスの悩みを抱えていた。二人は愛し合っていたが、ある日自己の欲求に負けてイトゥンは他の粗暴な男と一度だけ関係を持ち身籠もってしまう。憤って殺人を犯し逮捕されるアジョ。出所後も二人は離れ離れとなるが、お互いを思う気持ちは募っていく…。

暴力やセックスシーンがふんだんに盛り込まれているが、その中にも若い男女の純粋な愛情が描かれていて、ぞれぞれ過ちを冒した二人の愛情がどのような形で報われるかが見どころでもある。ただし、物語の導入で説明不足から物語の進行に疑問を抱えてしまう方もいるかもしれないが、映像をそのままに受け入れながら観ていくと、1980年代のインドネシアのある田舎町で繰り広げられる暴力に満ちた世界、泥臭く人間臭い世界に入り込み作品の魅力を十分に味わうことができる。

同作品では主人公アジョをはじめとした登場人物の不必要なまでの暴力沙汰、またそうした粗暴者を雇い権力や利益を得ようとする悪党など無法な舞台が作り出されている。全てを力で捩じ伏せ、自己の権力や金でやりたい放題の世界。1980年代の時代設定からも、スハルト長期独裁政権の体制が生み出した社会を暗喩した世界が作品内で描かれているともいえそうだ。

また、無法世界とはいえ殺人を犯した主人公アジョは逮捕され、一方で金のある悪党は公権の手にかからず平然と暗躍を続ける。ジャカルタの人気インディーズバンドの近年の曲の中に権力者を批判したものがあり、その歌詞に「小童悪党は法で罰せられ、大物悪党は守られる」という一節があるが、まさに映画作品内の状況と同じである。同作品は1980年代の政治社会体制だけにとどまらず、現在の権力社会に対する批判も込められているようにも見受けられる。

こうした中、不思議な人物も登場する。女優には失礼だが、アーノルド・シュワルツェネッガーが女装したかのような大柄で屈強な女性だ。登場シーンはイトゥンがアジョへのメッセージを記した紙片が捨てられたゴミ捨て場でむっくりと起き上がるところから始まる。行動は悪人に対してはターミネーターのごとく素早く残忍で、イトゥンと離れ離れとなり暴力を振るわなくなったアジョに対しては親身な対応をする。服装がイトゥンと同じことから、彼女の願望が生み出した未知の存在のようでもある。粗暴で現実的な世界を描きながらも人間臭いファンタジックな要素も盛り込まれ、作品の魅力を高める一助となっている。

この作品の原作は、海外での受賞歴もある人気中堅作家、エカ・クルニアワンで、ブラックユーモアを効かせながらも重厚な物語展開で定評のある実力派作家だ。原作を読んでいないので偉そうなことは言えないが、その原作の映像化を魅力的に実現させたのが、やはり実力派のエドウィン監督。暴力やセックスシーンが多く盛り込まれながらも、その先に主人公の感情の変化が的確に描かれてもいて、純粋な恋愛作品としても成立している。

さらにこの作品の魅力を高めているのが、近年デジタル撮影が主流の中、あえて16ミリフィルムで撮影されていることだ。デジタルのくっきりとシャープな映像ではなく、フィルム特有の深みのある色合い、柔らかみのある映像により、1980年代という当時の雰囲気を、またそれでいて異空間であるかのような世界が表現されている。フィルム撮影のために本作品の撮影に携わったのが日本の撮影監督、芦沢明子氏で、同氏は動画サイトにアップされた同作品のメイキング (YouTube : Di Antara Rindu dan Dendam Episode 1)の中で、フィルム撮影による同作品に及ぼした影響を次のように語っている。

アナログは(現像を要する)ケミカルなものなので(撮影したものを)その場で確認することはできない、そのため想像力、イメージを働かせるということがものを作ることの基本になる

芦沢明子

エドウィン監督も初のフィルム撮影に刺激を受けたようで、「初めてフィルム撮影制作の過程を教えられた時は、マジカルな印象を受けた。フィルムは私にとっては手紙のようなものである」と話している。フィルム撮影による技術的な効果にとどまらず、監督の演出にさらなる幅を持たせた今回の作品を芦沢氏は次のように評価している。

フィルムで撮影されたことが誇らしいのではなく、フィルムを使って良い結果を残したということが(この作品の)誇らしいことなんです

芦沢明子

出演者としては、脇役にクリスティン・ハキム、ルクマン・サルディ、レザ・ラハディアンといった大物俳優陣で固められていて、作品に安定感が増している。余談だが、あの大物女優にこんなことまでさせるのかと驚くシーンもある。

ユニークな演出としては、1980年代当時から流行っていたトラックに記された落書きで、トラック野郎(運転手)らの気持ちを端的に表現した文句が、恋人と離れ離れとなりながらも慕い続ける主人公の気持ちを代弁しているところだ。

たとえばトラックに書かれた名文句では次のようなものが登場する。

(田舎に)帰るのは恥ずかしいが、帰らないと恋しい

(彼女の)名前は忘れたが、感情は忘れない

トラック運転手

運転手らがバスに書いた「名文句」(2015年撮影)

筆者も近年、実際に同文句がバスやトラックに書かれているのを見たことがあることからも作品用に作った文句ではなく、長年トラック運転手らに「決まり文句」として使われ続けてきたものを作品に引用したことが窺える。監督の粋な演出である。

「恨みを晴らすことができるように、恋慕の気持ちも報われなければならない」と題された通り、主人公夫婦の二人の行方はどうなるか、皮肉な結末とともに劇場で味わっていただきたい。

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