『ホンダ・シビック(EG6型)』王座を譲らなかった最後のグループAシビック【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、EG6型のホンダ・シビックです。

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 1985年、グループA規定によってスタートした全日本ツーリングカー選手権(JTC)。このJTCの最小排気量クラスにおいて、1987年~1993年まで“マニュファクチャラーズタイトル 7連覇”という偉業を成し遂げたのが、ホンダ・シビックだ。

 シビックは、JTCに初年度から参戦したAT型から、計3世代が最大のライバルであるトヨタ・カローラレビンと鎬を削ってきた。そんなグループAのシビックのなかでも最後に投入されたのが、3世代目にあたるEG6型であった。

 EG6型のシビックがJTCにデビューしたのは、1992年のシリーズ第4戦。当初は、無限の走らせる車両1台のみのエントリーだった。

 1992年も多数のチームが使っていたEG6型シビックの先代であるEF9型シビックは、EG6型シビックも搭載する可変バルブタイミングリフト機構VTECを採用したB16A型エンジンを積んだ車両だった。

 EF9型シビックは、本来このB16A型エンジンを搭載することを想定していない車体だったために、前後の重量バランスが崩れてフロントヘビーになり、結果、アンダーステア傾向に悩まされていた。

 しかし、EG6型シビックでは、当初からB16Aエンジンを搭載することを考慮して、フロントまわりを最適化してバランスの改善を図った。

 さらに、そのB16AエンジンもEF9型シビック時代の当初は、レースではあまり使用しない回転域にメリットのあるVTECをキャンセルしたまま使っていたが、そのVTECも信頼性向上とともにEF9型シビック時代から使用を開始した。

 グループAでは、トランスミッションとデフのレシオに公認が必要だったためにギヤレシオを自由に選ぶことができず、ワイドなトルク特性を持っていたほうがいいという考えから使い始めた。

 そのB16AもEG6型シビック時代には、さらに熟成が進んで、最終的にピークパワーで1.6リッターNAとしては驚異的な最高出力230馬力を発揮するまでに進化していた。

 前述の通り、1992年の第4戦鈴鹿より無限のマシンがデビューしたEG6型シビックは、第6戦筑波で初優勝を成した。無限以外にもユーザーが増えた第7戦仙台では、ムーンクラフトの走らせるジャックス・シビックが1勝をマークした。

 さらに、ブレーキ容量のアップという目的もあり、フロントを17インチ化した無限のマシンが最終戦インターTECで再び優勝を飾る。このレースでは2位、3位にもEG6型シビックが入賞し、1-2-3フィニッシュでシーズンを締めくくった。

 結局、同年にEG6型シビックは、8戦中3勝をマーク。1987年から続くマニュファクチャラーズタイトルの連覇記録を“6”へと伸ばした。

 なかでも序盤戦にEF9型シビックで2勝を挙げた無限のマシンを駆る中子修がドライバーズタイトルを獲得した(中子とコンビを組んでいた岡田秀樹も同ポイントだったが、規定により1992年、1993年はポイントを獲得したレースの走行距離に応じてランキングされたため、総走行距離の多かった中子が王者となった)。

 翌1993年、グループA規定最終年となったJTCでEG6型シビックは、さらに飛躍。ライバルのカローラレビンも力を増してきていたが、まったく寄せ付けず、強さを見せつけた。そして、シリーズ9戦中8勝という圧勝劇を披露して、マニュファクチャラーズタイトル7連覇を達成した。

 ドライバーズタイトルは、4勝をマークしたジャックス・シビックの服部尚貴が手にした(前述の理由で、金石勝智も同ポイントだったがタイトルは服部に)。AT型から始まり1987年より最小排気量クラス最強の座に君臨し続けたホンダ・シビックは、その座をこのEG6型でも譲らなかった。グループAシビック伝説の一翼を担ったのだった。

1992年第4戦鈴鹿からEG6型となった出光MOTION無限シビックは、第6戦筑波で初優勝。ドライバーは中子修/岡田秀樹組。

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