体中の毛が抜けた抗がん剤、放射線治療… 元阪神外野手が号泣した父の行動

元阪神・横田慎太郎さん【写真:本人提供】

入院生活に付き添ってくれた「家族がいてくれたお陰」

脳腫瘍を患い、2019年にプロ6年目24歳にして現役引退を余儀なくされた、元阪神外野手の横田慎太郎さん。左打ちのスラッガーで将来の中軸打者として期待されていた中で襲われた病。18時間に及ぶ開頭手術、約2年半にわたった治療とリハビリ生活を経て、引退を決意するまでを本人に振り返ってもらった。

【実際の写真】2017年、抗がん剤と放射線による治療など壮絶だった闘病生活

レギュラー定着を期待されていた2017年2月の春季キャンプ中、体に変調を覚え、「脳腫瘍」というまさかの診断を受けた横田さん。同年3月30日、大阪府内の病院で開頭手術を受け、6月からは抗がん剤と放射線による治療が始まった。副作用でだるさと吐き気が続き、やがて頭髪だけでなく眉毛、体毛に至るまで体中の毛が抜け落ちた。

「どんな状況でも、絶対にグラウンドに帰るという気持ちだけは見失うことはありませんでしたが、それも家族がいてくれたお陰だと思っています」と横田さんは言う。母のまなみさんは、病院のそばにアパートを借りて荷物を置き、病室に寝泊まりしながら付き添ってくれた。夜は横田さんのベッドの隣に椅子を並べ、その上に寝ていた。父の真之(まさし)さん、姉の真子さんも、鹿児島から毎週、代わる代わる見舞いに訪れた。父はある時、高校球児のように頭髪を丸刈りにして現れた。「治療の副作用で髪が抜けてしまった僕に寄り添おうと考えてくれたようです。僕は髪がなくても野球はできるので、気にはしていなかったのですが、父がそこまでしてくれたことに感動しました」。父が帰った後、病室で号泣した。

約半年の入院生活の末、日常生活にそれほど支障がない程度まで回復。7月には「完解」との診断を受けて退院を迎える。9月3日には、阪神の合宿所「虎風荘」へ約7か月ぶりに戻ることができたが、復帰への道はまだまだ先が長かった。手術前に身長186センチ、体重96キロ、1桁の体脂肪率を誇っていた横田さんの肉体は、闘病生活を経て80キロまで落ち、体脂肪率は20%に跳ね上がっていたのだ。

球団とは11月に育成選手契約を結び、背番号が「24」から「124」に変わった。ただ、球団は「24は空けて待っている」と約束してくれた。「24番を取り戻すことが新しい目標になりました」と横田さんは振り返る。

プロの世界に導いてくれた田中秀太スカウトから「少し話をしようか」

翌2018年の2月には、2軍の春季キャンプに参加。基礎的なトレーニングからキャッチボール、ティー打撃、ノックをこなし、キャンプ後半には屋外でのフリー打撃も解禁された。シーズンに入ると、試合に出ることはできなかったが、ベンチで人一倍大声を張り上げ、チームを鼓舞した。こうして2018年と19年の2シーズン、実戦復帰を目標に練習に打ち込み、体力は手術前のレベルまで上がったが、どうしても戻らないものがあった。

「目の状態です。視力は左右とも1.5でしたが、打撃投手のボールやノックのフライが二重に見え、角度によって見えないこともありました。実戦形式のシート打撃で打席に立つことや、グラウンド内での走塁練習は危険と判断され、最後まで許可されませんでした」

2019年の9月中旬。横田さんは担当スカウトとして自分をプロの世界に導いてくれた田中秀太スカウト(現阪神2軍内野守備走塁コーチ)から「少し話をしよう」と声をかけられた。「球団は来シーズンも続けていいと言っている。おまえの気持ちはどうだ?」。そう問いかけられ心が揺れた。2シーズンに渡る苦闘を経て、この先いくら練習しても試合には出られないと悟っていた。「今年でユニホームを脱がしてください」と静かに告げた。

同月26日、阪神の2軍本拠地の鳴尾浜球場で行われたウエスタン・リーグのソフトバンク戦が、横田さんの引退試合として設定された。8回途中、平田勝男2軍監督からセンターの守備に就くよう命じられると、全力疾走で定位置へ向かった。「プロ1年目からずっと、平田監督からプロ野球選手として大事なことと教わっていたので、打てない時でも守備位置まで全力で走っていくようにしていました」と明かす。

試合には背番号124のユニホームで出場したが、終了後の引退セレモニーでは「24」に着替えた。プロ1年目の2014年、前年に現役引退した“代打の神様”こと桧山進次郎氏から受け継いだ栄光の背番号は、2018年から空き番となっていたが、このセレモニーでは横田さんの背中に戻った。今年からはロハス・ジュニア外野手が付けた。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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