【中原中也 詩の栞】 No.33 「羊の歌 Ⅲ」(詩集『山羊の歌』より)

九才の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有(いう)であるやうに
またそれは、凭(よ)つかかられるもののやうに
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話してゐる時に。

私は炬燵(こたつ)にあたつてゐました
彼女は畳に坐(すわ)つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室(へや)には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶陽(みみのは)に透きました。

私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(がんみ)しました。

【ひとことコラム】 この詩には冒頭に〈我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、/其処此処(そこそこ)に時々陽の光も落ちたとはいへ。〉というボードレールの詩句が引用されています。少女のあどけない仕草に、絶えざる苦悩の中でわずかに得た安らぎが表現されています。〈密柑〉は当時行われていた用字法。

中原中也記念館館長 中原 豊

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