目覚ましは甲子園のサイレンだった… 脳腫瘍乗り越えた元阪神外野手が叶えた親子の夢

引退セレモニーであいさつする現役時代の横田慎太郎さん【写真:共同通信社】

父の現役引退年に誕生…動画で見る雄姿

元阪神外野手の横田慎太郎さんは、左打ちのスラッガーで将来の中軸打者として期待されていたが、脳腫瘍を患い、2019年にプロ6年目・24歳にして現役を引退した。元プロ野球選手の父・真之(まさし)さんの背中を追い続けた野球人生を、横田さん本人に振り返ってもらった。

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横田さんの父・真之さんは、1984年ドラフト4位で駒大からロッテに外野手として入団。プロ1、2年目に連続で打率3割(.300、.304)をマークし、いずれもベストナインに輝いた。ロッテで8年間、その後中日で2年間、西武で1年間プレーし、計11年で917試合出場、通算打率.279、727安打38本塁打239打点108盗塁を記録している。

横田さんが生まれたのは、父の現役最終年だった1995年。もちろん直接プレーを見た記憶はない。「父がホームランを打った動画を見たことはあって、凄いな、身長は小さいのによく飛ばすなあ、と思いました」とリスペクトしている。一方で当時、ロッテの本拠地・川崎球場には毎試合閑古鳥が鳴いていた。横田さんは父に対し「外野席で観客が昼寝をしている映像を見たよ。本当にプロ野球だったの?」と冗談で軽口を叩いたこともある。

親子2代に渡り、外野手としてプロの世界に飛び込んだ。父が173センチ、78キロのアベレージヒッターだったのに対し、息子は186センチ、96キロと体格に恵まれたスラッガー。右投左打だった父に対し、息子は左投左打で、超人気球団の阪神に入団。満員の甲子園でもプレーした。

横田さんは幼少時代も、父から野球を強制されたことは1度もない。「礼儀は厳しくしつけられましたが、技術的なアドバイスを受けたことは数えるほどしかない。自分の好きなようにしていいよ、という感じでした。お陰で自分の頭で考えて野球をやるようになった。僕にはよかったと思っています」。そして元プロ野球選手の父の存在は、横田さんの人生を決定的に方向付けた。「父と同じ舞台に立ちたかった。子どもの頃から、プロ野球選手になって父を超えることが目標でした」とうなずいた。

父は鹿児島商高監督に就任し甲子園を目指す

鹿児島県日置市で育った横田さんは、小学3年で地元のソフトボールチームに入団。「鹿児島は少年野球やリトルリーグ以上に、ソフトボールが盛んです。中日の福留さん、DeNAの大和さんもソフトボールから始めたと聞いています」と言う。

一方、自宅でもプロ野球選手を目指しトレーニングを開始した。毎朝5時、母まなみさんの携帯電話に録音された、高校野球甲子園大会の試合開始を告げるサイレンの音を目覚まし代わりに起床。スタンドで演奏される応援曲を聞きながら、腕立て伏せ、腹筋、背筋に取り組み、ランニングへ出かけた。学校から帰宅後も素振り、シャドーピッチング。これを小、中学時代を通して欠かさなかった。「勉強は全くできませんでしたが、野球では誰にも負けたくなかった。ゲーム、漫画にも全く興味がありませんでした」と言い切る。子どもの頃から野球漬け。「両親も、勉強はしなくていい、野球のために1日を過ごしなさい、という方針。ありがたかったと思っています」と振り返った。

中学では野球部に入部し、全国大会にも出場。高校は名門・鹿児島実に進学した。1年生の秋から4番を打ち、甲子園出場は果たせなかったものの、投手兼外野手で高校通算29本塁打をマーク。プロへの道を切り開いた。2013年10月24日、ドラフト会議で阪神から2位指名を受けた時、横田さんは学校にいた。一報を聞いて駆けつけてくれた父親の表情を、今も忘れられないと言う。「めちゃくちゃ喜んでくれた。それまで見たことのないような笑顔でした」。真之さんにとっても、最高の1日だったに違いない。

真之さんは現在59歳。2016年から地元の鹿児島商高のコーチを務め、19年12月には監督に就任した。横田さんは「60歳近いのに真っ黒に日焼けして練習へ出かけていく姿を見ていると、体は大丈夫かと心配になります」と気遣いつつ、「父も必死に戦っている。強いチームをつくって甲子園に行ってほしい」と願わずにいられない。父は決して野球を押し付けず、手取り足取り指導することもなかったが、親子は野球を通して強い絆で結ばれている。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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