一瞬で奪われた「職場復帰」の夢 大阪・北新地の24人死亡火災、人気のクリニックでなぜ

出火元とみられるビル4階で活動する消防士=大阪市

 大阪市北区・北新地の雑居ビルで24人が亡くなった放火殺人事件は、おぼろげにその輪郭が見えてきた。大阪府警は現住建造物等放火と殺人の疑いで捜査を進め、4階の心療内科に火を付けたのは住所職業不詳の谷本盛雄容疑者(61)と特定した。容疑者名義の診察券が見つかっており、クリニックの患者だったとみられる。「働く人のサポート」を掲げるこのクリニックでは、事件当日も職場復帰を目指す「リワークプログラム」が予定され、多くの参加者が出席していた可能性がある。ストレスの多い現代社会で生き抜くため、たぐり寄せようとした「復職」への希望の糸は、突然の凶行によってぷつりと断たれた。(共同通信取材班)

 ▽あっという間に燃え広がった炎

 事件の現場はJR大阪駅近く、関西有数の繁華街・北新地の西端にある雑居ビルの4階。すぐ南には、多くの企業が入居するオフィスビルが軒を連ね、平日の午前中はビジネスマンを中心に人通りが多い地域だ。

 火災の発生を伝える119番は、17日午前10時18分に入った。目撃証言によると、男はエレベーターで4階の「西梅田こころとからだのクリニック」に着くとすぐ、受付前の待合室に液体の入った紙袋を置き、近くにあった暖房器具の方へ蹴り倒した。漏れ出た液体に火が付くと、あっという間に燃え広がり、窓の外までもうもうと煙が上がった。

 約10分後に到着した消防隊は、消火活動と並行して次々とビルから負傷者を担ぎ出した。向かいのビルで勤務する40代の男性は「6階の窓から身を乗り出してはしご車で救助された女性はいたが、その後、1階から運び出された20人ほどの人たちは全く動いていなかった」と振り返る。

シートで覆い救命措置をする救急隊員ら

 救助作業を目撃した別の40代男性は涙ぐみながらこう語った。「消防はオレンジ色のテントの中で心臓マッサージをしていたけれど、助け出された人は全員ぐったりしていた。見るからに意識がなさそうだった」

 ▽「めちゃくちゃ人気があった」と通院患者

 府警によると、犠牲になったのは男性14人、女性10人。火元となった入り口付近から建物奥の診察室へと連なるように倒れ込んでいた。ビルの外に出られるエレベーターと非常階段は、入り口に1カ所だけ。捜査幹部は「炎がない方、煙がない方に向かっていったんだろう」と話す。  

 

ビル4階のクリニックの見取り図

 被害がここまで大きくなったのはなぜか。理由として考えられるのは、閉鎖性が高く逃げ場が少ない雑居ビルだったこと。加えて「めちゃくちゃ人気があって、いつも大勢が並んでいるクリニック」(通院患者)だったことだ。

 通院していた50代の女性は「働いている人にすごく好評で、人気店、繁盛店という感じだった」と語る。内装も全体が白に統一され、清潔感があった。他の患者も「予約不要なので、待合室はいつも混雑していた」「20人くらいが待っていたこともある。ソファに隙間なくぎゅうぎゅうに座る感じだった」と証言した。

 通院患者らは、院長の対応の良さを挙げる。約4年前から通院しているという50代の男性は「私たちみたいに苦しい気持ちを持った人に寄り添ってくれる。心優しい人だった」と語る。

 元患者の1人は「会話のレスポンスが早い。論理的で回答も簡潔。ビジネスマンが多い地域なので、受けが良かったのではないか」とみる。

「西梅田こころとからだのクリニック」の受付付近(同クリニックのホームページから)

 さらに事件当日は、このクリニックが力を入れる「リワークプログラム」が午前10時から予定されていた。

 ▽復職に欠かすことができない「リワーク」

 一般社団法人「日本うつ病リワーク協会」によると、リワークとは「return to work」の略語。うつなどの精神疾患を原因として休職している人が、復帰に向けて取り組むリハビリテーションで「職場復帰支援プログラム」とも呼ばれる。全国で200以上の病院、診療所が実施しているという。

 厚生労働省が2020年度に実施した労働安全衛生調査によると、「メンタルヘルスの不調」を理由に1カ月以上休業した労働者がいた企業は、全体の7・8%。18年の前回調査より増加している。リワークプログラムは、一度休業した人たちが再び職場に復帰するため、欠くことのできない仕組みとなっているのが実情だ。

 

出火直後と見られるビル(通行人提供)

 事件現場となったクリニックのウェブサイトによると、プログラムは心理学の講座やストレスマネジメント、認知行動療法など八つの項目の組み合わせで構成され、職場復帰を想定した集団療法もある。入り口と診察室の間にあるリワークルームでは、十数人から20人程度が参加して実施されていたようだ。

 1年前まで通院していた30代の男性は「リワークプログラムが予定されている日は人が多い。朝一番に行くと待っている人で混雑していて、立って待つこともあった」と振り返る。クリニックの診療は午前10時から。火災発生はその15~20分後だった。大勢の患者で特に混み合っていた可能性が高い。

 ▽「死んでやる」と取り乱す患者も

 リワークで重要なのは、大勢の他人と1カ所に集い、衆人環視の中で平常心を保てるかどうかだ。兵庫県の施設でプログラムを経験した30代の女性のケースでは、毎日のように通い、部屋の中に机を並べた“疑似職場”で終日過ごすことが多かったという。午前中はやるべきことは特に決められておらず、新聞のコラムを書き写したり、塗り絵をしたり、それぞれがやりたいことに取り組んだ。午後には臨床心理士を交えた集団討論などがあり、休職に至った経緯を分析したり、リワーク中の心の動きを点検して、患者同士で対処法を話し合ったりした。

 プログラムの受講者は30~50歳が多かったという。中間管理職になりしんどくなった、と打ち明ける人も多くいた。人間関係を築くのが元々苦手な人や、家族関係が悪化して職場にも家庭にも居場所がなくなったと訴える人もいたという。  復職に向けたプログラムの過程では、感情も大きく揺れ動く。思わず自分の意見をまくしたててしまう人や、診察の前後では「死んでやる」と泣いて取り乱す人もいた。

 クリニックの医師やスタッフは、患者にとっては復職に向けて「命綱」となる存在。治療方針や波長が合わず、病院を変えたり、「気持ちを受け止めてもらえない」「自分の状況がなかなか改善しないのは先生のせい」と一方的に負の感情を募らせたりすることもありえる。

現場のビル前に手向けられた花

 この女性は「あくまで推測だが」と断った上で「うまくいかず、しんどい思いを抱えていると、取るに足りないことがきっかけで自暴自棄に陥ってしまうこともある。自分と同じ弱い人を狙って道連れにしようとしたのかもしれない」と涙声で語った。

 事件の詳細や動機はまだ分からないが、犠牲者の多くはこの社会で、職場で、何とか生き抜こうとしていた人たちだった。彼らが命を奪われた事実。その重みが変わることはない。

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