脊髄に腫瘍が転移、コロナ禍での闘病生活… 元阪神外野手を支えたのは“母の言葉”

抗がん剤と放射線治療など壮絶な闘病生活を送った横田慎太郎さん【写真:本人提供】

脊髄への腫瘍転移に心が折れかけた

元阪神外野手、横田慎太郎さん。左打ちのスラッガーで将来を嘱望されていたが、脳腫瘍を患い、2019年にプロ6年目24歳にして現役を引退した。引退試合では、センターから驚異のノーバウンド送球で走者を刺し、野球ファンに雄姿を焼き付けた。これは自著「奇跡のバックホーム」(幻冬舎)にも書かれているが、実は後日談がある。昨年、脊髄に腫瘍が転移していたことが判明。新たな試練と格闘していた。

2019年限りでユニホームを脱いだ横田さんは、講演活動、YouTube出演などを通し、自身の貴重な経験を伝える活動に取り組んでいた。ところが昨年7月頃、左足と左腰に強い痛みを覚えた。地元・鹿児島の整形外科で診察を受けたが、理由は分からない。9月になって、2017年に脳腫瘍の開頭除去手術を受けた大阪府の病院で受診。脊髄に腫瘍が転移していたことが分かり、入院した。

悪夢再び。今回は手術の必要はなかった。その代わり、前回は3週間のインターバルを置きながら5日間連続の抗がん剤投与を3クール行ったが、今回は5クールに増えた。副作用で激しいだるさ、吐き気に襲われたのは前回と同じ。そして再び、頭髪をはじめ体中の毛が抜け落ちた。

今回の入院生活には、新型コロナウイルスの感染拡大という新たな敵も立ちはだかった。前回は母のまなみさんが病院のそばにアパートを借りて付き添ったが、今回は今年2月に退院するまで足掛け半年間、病院から一歩も外へ出ないことが看病の条件。外部からの見舞いも禁じられた。

支えとなった母の言葉「船に乗った以上、途中では絶対に降りられないよ」

さすがの横田さんも、2度目となると心が折れかけていた。「前回は絶対にグラウンドへ戻るという目標がありましたが、今回は何を目標に乗り切ればいいのか分かりませんでした」と言うのも無理はない。そんな横田さんを支えたのは、今回も母まなみさんだった。思わず弱音を吐く横田さんに、こう語りかけたという。「船に乗った以上、途中では絶対に降りられないよ。最後に港で一緒に降りようよ」

周囲の患者さんもつらそうな表情をしていた。「僕は母の言葉を聞いてから、前を向いて強い気持ちで治療に臨めるようになりました。自分が病気に打ち勝ち元気になって、自分と同じ病気で苦しんでいる人たちの力になること。それが新しい目標になりました」と振り返る。

腫瘍の再発は、家族以外には誰にも伝えなかった。「コロナ禍の最中でもあり、余計な心配をかけたくなかった。病気が治ってから公表しようと決めていました」。孤独感の強い日々に耐えていた。

退院後、頭髪は生えそろったが、後遺症はある。右足の太ももには正座をした後のようなピリピリとした感じがあり、左足は感覚が薄い。現在は鹿児島県日置市内で1人暮らしをしながら、毎朝40分の散歩などのリハビリに取り組んでいる。歩行中につらくなると、自分の足に「もう少しだけ頑張ってみようか?」などと語り掛ける。「そうすると、足の方も僕の話を聞いてくれるようで、痛みが治まったりするのです。文字通り“体と相談する”ことはすごく大事だと感じています」と語る。

2019年9月26日の“奇跡のバックホーム”を最後に、子どもの頃から一心不乱に熱中してきた野球からは完全に離れている。「バットを握っていないし、キャッチボールもしていません。あのバックホーム以降、本当に1球たりとも投げていないです」。野球をまたやりたいでしょう? と尋ねると、「今やるべきことは自分の体を元に戻すことなので、そういう気持ちはまだないです」と言い切った。いったん目標を定めると、それ以外のことには一切気が逸れないタイプのようだ。

「26歳の若さで大きな病気を2度も乗り越えて、“神様は乗り越えられる人にしか試練を与えない”という言葉を何度も自分に言い聞かせるようになりました」と横田さん。「これまでたくさんの方々に支えてきてもらったので、次は自分が世のために必死になってやりたいという気持ちが強いです」と続けた。

講演活動などを通じて語られる言葉は、耳を傾ける人々を励まし、それぞれの人生を見つめ直すきっかけになるはず。そして横田さんの人生は、いつかもう1度、野球に接する時が来るのではないだろうか。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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