「恩返し」で福島に移住8年半、奥尻島で津波に被災した男性の思い 「それぞれの復興」に尽力

93年7月、北海道南西沖地震で発生した火災と津波で壊滅的被害を受けた奥尻島

 「今度は自分が復興の力になる」。1993年7月の北海道南西沖地震で被災した北海道・奥尻島出身の浅利勇二さん(49)は8年半ほど前、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で大きな被害を受けた福島県に妻陽子さん(45)と移り住んだ。津波で一変した故郷で全国から受けた支援の恩返しの思いを胸に、それぞれの復興に向けて尽力している。(共同通信=兼次亜衣子)

 ▽写真と服を遺骨代わりに葬儀

 93年7月12日夜、友人と奥尻島のフェリーターミナルにいた。激しい揺れに襲われ、ごう音とともに近くで土砂崩れが起きた。夜明けを待って向かったのは、自宅がある青苗地区。炎と黒煙に包まれ、津波にさらわれてあるはずの家や建物がない。自宅も流され、父謙二さん=当時(67)=が行方不明に。がれきの中で見つけた遺品の写真と服を遺骨代わりに葬儀を上げた。

 避難所で暮らす日々を支えてくれたのは、全国から駆け付けたボランティアだった。「物だけじゃなく、人の温かさをもらった。若かったから気持ちを伝えられなかったけど」

 悲しみを紛らわせるかのように復興に携わり、コンクリートを運ぶミキサー車に乗って、かさ上げや防潮堤の工事に奔走した。島は5年で復興宣言したが「いつか奥尻に力を貸してくれた恩返しがしたい」との気持ちは年々強くなっていった。

 ▽「私も一緒に行く」

 陽子さんと結婚し、北海道函館市で暮らしていた11年3月11日、東日本大震災が起きた。テレビ画面には津波が押し寄せる仙台空港の映像。「なんで逃げていないんだ。地震から40分もたっているのに、なんで…」。ぼうぜんとなり、奥尻の教訓が伝わっていないことに胸が締め付けられた。

 10日後、トラックに水や食料を積み込み宮城県に向かった。「何か行動をしなくては」と居ても立ってもいられなくなったからだ。避難所を回ると、不安そうな表情で硬い板敷きの床に座り込む人々の姿。昔の自分たちに重なった。

 道中、車内のラジオで福島県の津波被害情報を耳にした。インターネットで調べると、福島で土木作業員が足りていないという情報があり、ずっと気になっていた。

笑顔を見せる浅利勇二さん(右)と妻の陽子さん=3月、福島県内

 転機はその2年後。福島で復興工事を請け負う仕事に就くことにした。夕飯時、ビールを飲みながら陽子さんに告げた。

 「福島で復興の手伝いをする。奥尻の恩返しをしたいんだ」

 「私は行かないよ。仕事もあるし」

 「単身で行くよ」

 そんなやりとりをした半月後、妻が言った。「私も仕事辞めてきた。一緒に行く」

 「2人きりだし、支えになれればと考え直した」と陽子さん。13年4月、「1年くらい」のつもりで夫婦は福島県いわき市に居を移した。

 ▽「家があるのに帰れない」って…

 いわき市では防潮堤の復旧工事や、災害公営住宅の建設、宅地造成などに携わった。変わりゆく沿岸部の光景。仮設住宅を離れ、新たな居場所を見つける住民の姿を見て、少しずつ前に進んでいると感じた。

 しかし、原発事故の影は濃い。陽子さんが働き始めた介護施設では、原発周辺から身を寄せたお年寄りがいつも「帰りたい」と口にする。休日のドライブで避難区域が近づくと、人の気配はなくなり、立ち入り禁止のバリケードが続く。

車両を整備する浅利勇二さん=3月、福島県大玉村

 「自分は津波で全てを流された。家があるのに帰れないのはどんな気持ちなのか」。19年4月、第1原発に近く、放射線量が高い「帰還困難区域」内に建設資材を運送する仕事に就いた。長引く避難で荒れ果てた建物を目にすると、「早く人が戻れる場所にしたい」との思いが募った。

 自身の生活の場も移した。第1原発の20キロ圏にかかり、一時、避難区域となった川内村。以前からドライブで訪れ、豊かな自然と温泉が気に入っていた場所だ。陽子さんも村内の介護施設で仕事を見つけ、近所付き合いも増えた。村での日々は穏やかに過ぎ、いつしか福島は夫婦の「第二の故郷」になっていた。

 20年末からは内陸部の本宮市で暮らし始めた。長年のドライバー生活で痛めた腰が悪化し、長時間の運転が難しくなって職場を変えた。今は大玉村の運送会社で車両管理や整備を担っている。

 川内村でおすそ分けしてもらった野菜や果物は、びっくりするほど甘くておいしい。それなのに村の人たちは「自分たちで食べる用に作っている」と言う。もったいないと常々思っていた。

大型トラックのタイヤを交換する浅利勇二さん=3月、福島県大玉村

 北海道でも携わっていた物流の現場で、新たな目標を定めた。「福島の農林水産物を県内外に届ける下支えをしたい」。川内村だけではない。今は避難区域の場所にも、いつか人が戻るだろう。そこで取れたおいしい物を、たくさんの人に食べてほしいから。

 ▽願いはさまざま

 北海道南西沖地震から今年7月で28年が過ぎても「節目はない。あの日から時間は止まったまま」との思いは変わらない。それはきっと、震災と原発事故から10年がたった福島でも同じだ。

 故郷に戻れた人、新たな土地で生活すると決めた人、いつか帰れると信じてその日を待つ人―。願いはさまざまで、それぞれにとっての復興があるはずだ。「それまで、何かしら協力したいんですよね」。人なつっこい表情で、くしゃっと笑った。

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