中高時代は「毎日天気予報とにらめっこ」 “練習嫌い”が日本一のシニアを築くまで

茨城・取手リトルシニアの石崎学監督【写真提供:取手リトルシニア】

取手シニアを全国大会で3度優勝に導いた石崎学氏

2007年創部の茨城・取手リトルシニアは、これまでに3度日本一に輝き、ソフトバンクの柳町達外野手ら、プロ野球選手も輩出している強豪チーム。監督を務める石崎学氏は中学、高校時代「(野球選手としてよりも)ヤンチャで有名だった」と振り返る。一度、道を踏み外しそうになった石崎氏がシニアチームを立ち上げたのは、野球で得た縁があったからだ。

茨城・竜ケ崎一高時代は、現在専大松戸高を率いる名将・持丸修一監督の指導を受けたが、中学時代から雨を祈って「毎日、天気予報とにらめっこ」する日々。練習に前向きではなく、常に野球を辞めたいと思っていたという。

チーム内で野球の技術は1番だった。しかし、学校での生活態度が芳しくなかった石崎氏に対し、持丸監督は選手ら全員の前で「俺はこいつを使わない」と宣言したという。当時は「ふざけんな」とふてくされていたが、高校2年の冬に野球に向き合うきっかけとなった出来事があった。

テスト期間が明けた最初の練習。ボールを投げたら、肩に痛み走った。その時は「何でもないだろう」と思ったが、徐々に悪化。3年の6月には肩が上がらなくなっていた。「ボールを投げられないことがこんなにつまらないなって……」。満足にできなくなって野球の楽しさを再認識した。

その後、大学に進学。普通に就職活動を行い、一般企業から内定を得た。高校時代に痛めた肩は軟式球なら投げられる程度に回復していた。そんな時、トレーナーとして野球界で活躍する立花龍司氏の姿をテレビで見て、野球への思いが再燃した。

もう一度全力でボールを投げたいとの思いから、トレーナーの道に進むことを決意し、内定を辞退。筑波大の体育専門学群に進学した後輩から授業内容を聞くなど、独学で知識を習得し、23歳の秋に試験を受けて道を切り開いた。

「野球で出会った縁は1番の財産」

徐々にトレーナーとしての仕事を増やし、高校球児を見ていくうち、監督から指導を頼まれる機会が増えていった。その縁もあり、32歳で取手リトルシニアを立ち上げた。

振り返ると、野球が自分の人生を大きく動かしてきたことに気付いた。トレーナーを志したきっかけはボールが投げられなくなったから。思えば、「使わない」と宣言した持丸監督も、大学進学や、トレーナー活動を始めたとき、そして今現在でも、様々な場面で支えてもらっていた。

「野球で出会った縁に窮屈さがなかったんですよね」

取手シニアは創設4年目の2011年に全国選抜大会を初制覇。今年3月に2度目の優勝を飾った。プロ野球選手も輩出する名門シニアになったが、目指しているのは選手に長く野球を続けてもらうこと。野球で得た“球縁”を、選手も大切にしてほしいと強く願う。

「球縁は、高校で野球を辞めるのと大学、社会人まで続けるのとでは広がりが違います。150キロを投げられても社会では役に立ちませんが、野球で出会った縁は1番の財産になります」

選手寿命を伸ばすため、トレーナーとして培った知識で怪我を予防する他、将来的に活躍できるポジションでプレーさせるなど、大学や社会人での野球を見据えた指導をする石崎氏。その根底には、自らを正してくれた野球への恩返しがある。(川村虎大 / Kodai Kawamura)

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