「検察官は誰のために仕事しているのですか」/子を失った両親と共に歩んだ「隼君」報道 毎日新聞(1998年〜) [ 調査報道アーカイブス No.75 ]

◆8歳男児の交通事故死 最初はベタ記事だった

2020年の交通事故による死者数は2839人で、1948年(昭和23年)に警察庁が統計を取り始めて以来、最少を記録した。2021年も11月末時点で2352人。前年をさらに下回るペースで推移している。だが、1990年代の死者数は毎年1万人前後に達していた。「交通戦争」と言われていたものの、警察や検察にとっても事故を報じるメディアにとっても、死亡事故自体が日常的なものになりがちだったという。

東京都世田谷区内で1997年11月28日朝に起きた死亡事故もその一つだった。犠牲になったのは当時小学2年の片山隼君(8)。隼君は通学途中、青信号で横断していたところ、渋滞で横断歩道をまたぐ形で停車中だったダンプカーにひかれて亡くなった。ダンプの運転手は業務上過失致死と道路交通法違反(ひきにげ)の疑いで現行犯逮捕されたものの、全国紙のほぼすべてがベタ記事(1段見出し)の扱いだった。この事故がその後、犯罪被害者や遺族らに対する対応を大きく変えることになろうとは、この時は誰も思っていない。

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取材の始まりは、1998年2月下旬に毎日新聞社会部に届いた一通の投書だった。事故から3カ月ほどが過ぎている。手紙は隼君の母親からだった。

「かわいい8歳の息子が大型ダンプにひき逃げされました」

「所轄の警察が目撃者全員に『(運転手の)起訴は間違いない』と公言し、いまだ新たな目撃者証言を探し続けているにもかかわらず、検察庁は不起訴処分を決定しました」

警視庁記者クラブに詰めていた江刺正嘉記者は早速、ひき逃げ事故などを担当する同庁交通捜査課の幹部に取材した。すると、驚くような答えが返ってきた。幹部は「目撃者4人のうち、隼君がひかれるのを見たのは女性会社員1人だけだったので、(運転手の)有罪を確実にするためにも、もっと目撃者を探すよう成城署に指示した」と言う。そして起訴に向けて証拠固めを指示した。その直後に東京地検が不起訴を決定したため、警察幹部は大いに疑問に思ったのだという。

◆子を失った両親の訴え 記者も泣いた

江刺記者は4月、隼君の両親に会った。その時の様子を江刺氏は後年、『月刊Journalism』(2020年11月号)で明かしている。

事故の状況や東京地検・警視庁の対応を詳しく知るため、手紙を受け取ってから約1カ月後、初めて(母の)章代さんと夫の徒有(ただあり)さんに会った。98年4月1日。隼君が生きていればちょうど3年生に進級した日だった。自宅には愛らしい隼君の写真が壁中に張られていた。「大空を飛ぶハヤブサのように自由に育ってほしい」。「隼」という名前に両親が込めた思いを聞いた。章代さんは写真の思い出を1枚1枚について丁寧に説明してくれた。

徒有さんは隼君の命を守れなかった後悔から、毎日深夜になると現場に赴き、まだ血の残ったアスファルト地面に頰ずりし、「隼、痛かったろうに」と語りかけた。章代さんは「大好きな隼がいないのに、どうして私はご飯を食べ、生きているの」と自分を責めた。寝ていても隼君がダンプの砂利に埋まる夢を見てうなされるという。

両親の悲しみや苦しみは私の想像をはるかに超えていた。涙をこらえられず、メモ帳の文字がかすんで見えなかった。両親の話を懸命に聞いているうちに4時間が過ぎ、取材が終わったのは午前0時を回り、翌日になっていた。涙を流すような取材はいつ以来だったか。全く思い出せないほど、被害者の取材から遠ざかっていた。

父親によると、不起訴処分を知ったのは、「逮捕された運転手の裁判の日程を知りたい」と東京地検に足を運んだ時だった。「なぜ不起訴なのか」と尋ねても地検の事務官は「答える義務はありません。法律でそうなっています」と繰り返すのみ。検察の処分に不服な場合に申し立てができる検察審査会の案内書のコピーを渡されただけだった。

両親は江刺記者に訴えた。

「親の悲しみを聞くことなく、20日間の捜査で処分を出すなんて納得できない」
「捜査内容を被害者や遺族に教えないなら、検察官はだれのために働いているのでしょう」

そして毎日新聞は記事を出す。『二男奪ったダンプ、不起訴なんて 東京・世田谷の両親無念…聞き込み1カ月』。4月24日の夕刊だった。記事は、ダンプの運転手が「無線交信に気を取られ、周りを見ていなかった」と隼君の両親に過失を認めていたこと、「捜査は不十分だった」として両親は検察審査会に不起訴不当の申し立てをする意向であること、交通事故の被疑者の処分は遺族に説明しないケースが大半で被害者対策に問題があることにも言及していた。

毎日新聞1998年4月26日夕刊

◆キャンペーン企画「交通禍 隼君事故の問いかけ」始まる

これを機に毎日新聞は交通事故取材班を立ち上げ、キャンペーン企画「交通禍 隼君事故の問いかけ」に着手した。他の事故事例も取り上げ、事故捜査全体の問題点や被害者対策の遅れなどを問いかけたのである。

世間の批判を受けた東京地検は7月、東京高検の指示を受け、検察審査会の結果を待たずして事故の再捜査に乗り出す。ポイントは、ダンプとの衝突地点までの隼君の行動だった。地検はこの時点では「隼君の飛び出しの可能性も否定できない」と見ていたからだ。やがて、新たな目撃者が名乗り出た。ミニバンを運転し、ダンプの対向車線で信号待ちをしていた男性会社員だ。男性はダンプに向かって「子供が(前に)いるぞ」と運転席の窓から大声を出し、クラクションを何度も鳴らした。それにもかかわらず、ダンプは歩行者の安全確認を怠って発進した。事故当日に110番通報し、連絡先も伝えたのに警察から呼び出しは来ない。それでも、再捜査を知って名乗り出たという。

この証言が決め手となって10月下旬、東京地検はダンプの運転手を業務上過失致死罪で起訴した。道交法違反(ひき逃げ)については再び不起訴(嫌疑不十分)となったものの、地検の交通部副部長は隼君の両親に「新たな目撃証言が出ていろいろなことが分かりました。当初の捜査が不十分であったことは認めざるを得ません」と語ったという。

東京高検・東京地検の入る建物

◆報道も「事故の日常化」に慣れ、流されていた

隼君の事故死をめぐり、遺族に被疑者の処分結果を伝えなかった問題は国会でも取り上げられた。法務省は1999年2月、すべての事件を対象に処分結果などを通知する「被害者等通知制度」の実施を全国の検察に通達した。警察庁も98年9月、原因究明が困難な交通死亡事故を取り扱う「事故捜査指導官」を各警察本部に新設することを決定。交通事故の捜査を適正に行うことや被害者対策の推進を全国の警察に命じた。

キャンペーン取材の経緯は『隼君は8歳だった ある交通事故死』に詳しい。そのあとがきで、事故当時の社会部長だった朝比奈豊氏はこう記している。

車社会に生きる私たちはいつ被害者になっても不思議ではないし、運転する人は加害者になりうる。これは恐ろしい現実だが、「事故の日常化」が私たちの感覚を鈍くさせてきたのではなかったか。捜査当局の交通事故に対する姿勢もその延長上にあったと思う。それを批判する新聞もまた、事故の日常化に流されて来なかったか。(中略)片山隼君は私たちにそうした「慣れ」の怖さを教えてくれた。

一連の報道は地検に捜査の誤りを認めさせただけでなく、社会を大きく変えたのである。

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(フロントラインプレス・本間誠也)

■参考URL
単行本『隼君は8歳だった ある交通事故死』(毎日新聞社会部取材班)

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