野村克也氏と出会い「打席に立つのが面白くなった」 元阪神・桧山進次郎氏を変えた思考

元阪神・桧山進次郎氏【写真:荒川祐史】

「他のチーム行ったら、試合出られるのかな」出番は減る一方

憧れのプロ野球選手は、いくつもの転機を経てひのき舞台にたどり着いている。阪神で“代打の神様”として鳴らした桧山進次郎氏にとっては、2020年2月に亡くなった野村克也氏との出会いもまた、大きな転機となっている。Full-Countの連載「プロフェッショナルの転機」では、人との接し方まで変わったという3年間を振り返ってもらった。

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野村監督が就任した1999年、桧山氏は迷いの中にいた。前年まで3年連続2桁本塁打。人気球団の4番に座り、一見順調な野球人生。ただ「他のチームに行ったら、俺試合に出られるのかなとか、そんなことばっかり考えていました。『阪神だから出られるのかな』とか。行き詰っていたんです」。

2000年の野村体制2年目、2歳年下の新庄剛志外野手(日本ハム新監督)は4番を打っていた。新人から2年連続3割を打った坪井智哉外野手もいた。一方で桧山氏は、外国人との定位置争いに敗れ出番は減る一方。甲子園では辛辣な野次が飛んだ。濱中治外野手も台頭してきた。「こりゃ、ヤバいな」。危機感に襲われた。

出番は、大して勝敗と関係のない場面に追いやられていった。「大差で負けてる試合の9回2死、ランナーなしとか、本当に気持ちが上がらないとこの代打ですよ」。試合前の練習で、他球団の選手に「桧山さん、切れんでくださいね」などと励まされるような状況だった。

ベンチに座っている時間のほうが、遥かに長い日々。野村監督のぼやきが耳に入るようになる。考える時間はたっぷりあった。いつしか「俺が捕手だったら、こう投げさせるのにな」という見方が芽生えた。誰に聞かせるわけでもなくぼやく指揮官と、配球対決しているような感覚に襲われた。いつしか磨いた“捕手感覚”を生かして、打席に立っている自分に気がついた。

「もうダラダラの自然体で構えたら…」ついに出た結果

「さっきの『気持ちが上がらない代打』でも面白くなって、2死から四球を選ぶことも嬉しくなったりとかね。考え方が変わることで、打席に立つのが面白くなっていった。確実に打つためにはどうしたらいいかと考えた打ち方もマッチしてきて……」。そんな中、ついに転機となる1本が出る。

2001年4月7日、大阪ドームで行われた横浜戦。代打で三浦大輔投手(現DeNA監督)に対した。キチっと打ちたいという美学を捨て「もうダラダラの自然体で構えたら、1球目にボールがやたら見えたんです」。2球目のスライダーを、右翼線の二塁打にした。翌日の甲子園での試合は先発出場。バワーズから左中間に本塁打を放った。「これやと。もう駆け引きが楽しくなってね」。快打連発で、出番は少しずつ増えていった。この年121試合に出場し、自身初の打率3割を記録。大振りで三振を繰り返していた打者の大変身だった。

この頃桧山氏は、選手会長を務めていた。選手を代表して行動することが増えると、あることに気づいた。「野球だけじゃなく、人との駆け引きが楽しくなっていたんですよ」。契約更改の交渉で、アップを引き出す事にも快感を覚えるようになった。「野球は人生の一部なんです。野球を通じて人生勉強をさせてもらった」。名監督との出会いは、生き方まで豊かにしてくれた。

○桧山進次郎(ひやま・しんじろう)1969年7月1日生まれ。京都府京都市出身。平安高、東洋大から1991年ドラフト4位指名で阪神入団。1995年に右翼の定位置を掴み、115試合に出場した。2003年、2005年のリーグ優勝には中心打者として貢献。プロでの通算成績は1959試合出場、1263安打、159本塁打、707打点。打率.260。通算代打起用757回、158安打はいずれもプロ野球史上2位。身長177センチ、体重78キロ、右投げ左打ち。(Full-Count編集部)

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