セメントで埋められた原爆供養塔の鉢、誰が何のために? 調べて分かった60年前の思い

セメントのようなもので埋められた鉢

 広島市の平和記念公園内の原爆供養塔に、石製の鉢が置かれている。記者がその鉢の異変を知らされたのは、2021年9月だった。鉢の中がセメントのようなもので固められている。教えてくれた市民によると「以前は水が入るようになっていた」が、水をためる穴の部分がふさがれていた。原爆の犠牲者を追悼する大切な場所で、誰が何のためにこんなことをしたのか。そして、そもそもこの鉢は何のためにここにあるのか。調査を始めた。(共同通信=佐々木夢野)

 ▽何かの宗教目的?

 鉢は縦約55センチ、横約60センチ、高さ約60センチで正面に「献納」、側面には「昭和38年8月贈」「鹿児島県鹿屋市 木場昭春」と刻まれている。置かれている場所は供養塔の地下納骨室入り口付近。供養塔には、約7万人分とされる身元不明や引き取り手のない遺骨が眠る。

 

寄贈された当時とみられる鉢。撮影時期は不明

ここに鉢が置かれている意味は何だろう。供養塔を訪れる市民たちの間では、多くの被爆者が水を求めて亡くなったため「水を供えるための鉢」と考えられていた。

 では、それをなぜセメントで埋めてしまったのだろう。ろうそく立てがあり、線香立てを置くための穴も開けられ、ところどころにビーズがちりばめられている。「誰かが何かの宗教の目的で埋めたのではないか」という意見が出た。 

 市の緑政課や原爆被害対策部調査課に聞いた。「鉢は市の所有物ではなく、設置目的も不明。ただ、加工は単なるいたずらと言い切れない。どのように対応したらいいか検討する」という回答だった。

 調査課によると、加工された時期は供養塔周辺を清掃するボランティアの話などから、7月以降とみられる。また、毎月6日の早朝には供養塔に原爆犠牲者を追悼する市民たちが集まる。その取材で記者が撮影していた写真を見返すと、7月6日朝は異常はないが、原爆の日の8月6日朝は既に埋められていた。

2021年7月6日撮影の写真。鉢に異常がないことが分かる

 ▽「私が提案した」と語った女性

 取材を進めるうちに、ある女性から「私が地元の人に『穴に石を敷き詰めたら』と提案したことがある」と聞いた。ただ、理由を聞いても明確な答えは返ってこない。それに「自分が埋めたのではない」と否定もされた。

 女性が通う広島市の宗教施設を訪ねたが、応対した男性は「われわれの宗派ではビーズを使うようなことはありません」と首をかしげた。その後も複数の人に話を聞いたが、謎は解けなかった。

 ▽60年前の寄贈者を捜して

 

 そこで、約60年前に寄贈されたという鉢の来歴をさかのぼってみた。側面にある「鹿児島県鹿屋市 木場昭春」という人に話を聞こうと、古い電話帳で調べて電話したが、既に使われていなかった。

 

木場昭春さん=撮影時期不明(木場修一さん提供)

 次に木場さんの住所に手紙を送った。すると約2週間後、記者の携帯電話が鳴った。出てみると昭春さんの長女。彼女によると、昭春さんは2016年に亡くなっていた。寄贈の詳細な経緯は分からないが、昭春さんがかつて広島に旅行し「寄贈した時、地元新聞に取り上げられた記憶がある」という。

 約1カ月後の11月、今度は三重県鈴鹿市に住む長男の修一さん(60)が連絡をくれた。「父が贈ったという鉢を見たい」と、広島にも足を運んでくれた。

 修一さんは広島に来る前、鹿児島の実家に残された父母の手記や写真のアルバムなどを探してくれた。それらの資料から寄贈の経緯が分かった。

 商店を営んでいた昭春さんは、商工会議所の仲間と広島旅行をした。平和記念公園を訪れた際、献花が地面に置きっ放しになっているのを見かね、鹿児島に戻って鉢を入手。1963年8月、献花用として寄贈したという。

 それから約60年。加工された鉢を見た修一さんは「こういう状態になるのは苦しい。寄贈から年月が経過し、鉢の役目は終わったのかなとも思うが、できればきれいにしてもらいたい」と訴えた。

広島を訪れた木場修一さん

 ▽新聞記事を発見

 ところで、長女は「地元の新聞に載った」と語っていた。該当する新聞記事がないか鹿児島県立図書館に調べてもらうと、今は廃刊となった「鹿児島新報に記事がある」と教えてくれた。

 記事は1963年8月1日付。「ドームに花立台」という見出しが付き、鉢と昭春さんの顔写真も添えられている。

 記事によると、昭春さんは63年7月5日に平和記念公園を訪れ「原爆ドーム前の花立て台がブリキや板でつくられた粗末なもので、あまりに見劣りする」と心を痛めた。鹿児島県肝付町の御影石の産地を訪れて鉢の製作を依頼し、7月29日に発送した。総経費は1万円。広島「平和記念館施設管理事務所」は「喜んで頂戴する。さっそく現場に備え付けたい」と回答したという。

鹿児島新報の1963年8月1日の記事コピー

 昭春さんのコメントも載っている。「8月6日の原爆記念日までに間に合わせようと急いだ。被爆者の霊が安らかに眠るよう役立てば幸いだ」

 ▽ドームから慰霊碑へ、そして供養塔へ

 記事の記述通りなら、鉢は当初、原爆ドーム前にあった。だが、修一さんが見せてくれた古い写真では、鉢は公園中央の原爆慰霊碑の前に置かれているように見える。広島市平和推進課に写真記録を調べてもらったところ、4年後の67年には慰霊碑前に置かれていたことが確認できた。

 それがいつの間にか原爆供養塔前に移されている。経緯は不明だ。2010年の写真を見ると、鉢の穴に砂を入れ、線香を立てられるようになっている。その後は元通り、水をためて使われていたようだ。

 ▽やっと修復作業に

 

修復された鉢

 市調査課の担当者は11月になって、以前の説明を翻し「当初から市の所有物だったことが分かった」と明らかにした。寄贈された際の記録が見つかったのだという。市は12月13日、器物損壊容疑で広島中央署に被害届を提出した。

 20日には修復作業が行われた。作業員が金づちでセメントを壊すと、中に小石が敷き詰められていた。きれいに洗浄し、新たに砂を入れて焼香台として使うようにした。記者に鉢の異変を教えてくれた市民は、この作業を見守り「木場昭春さんの思いや犠牲者に寄り添えた」と話した。

 献花用ではなく焼香台とした理由について、市は「修一さんの希望」と話す。記者が修一さんに尋ねると「鉢の役目は終わったが、今の場所のまま、砂を入れて線香を立てられるようにしてほしい」と要望した。

 ▽犠牲者を見守り続けて

2021年12月現在の鉢と供養塔

 約3カ月かかった取材の結果、鉢は場所や用途を変えながら、市民に長年使われてきたことが分かった。「被爆者の霊が安らかに眠るよう役立てば」と願った昭春さんの思いは、今も生きている。今後も供養塔で眠る原爆犠牲者の遺骨を、静かに見守り続けてほしいと感じた。

© 一般社団法人共同通信社