『作家の値うち』小川榮太郎インタビュー「いまの文壇は不真面目過ぎる」 現役作家100人の主要505作品を、文藝評論家の小川榮太郎氏が100点満点で採点した話題の新刊『作家の値うち』(飛鳥新社)。筆者の小川氏が執筆の苦労や、いまの文壇の問題点まで、語り尽くす!(聞き手・花田紀凱)

執筆に2年かかった労作

――現役作家100人の主要505作品を、小川榮太郎さんが100点満点で採点した『作家の値うち』(小社刊)、大変面白く拝読しました。2年かかったそうですが、2年間で505作品を読むのは、やはり大変でしたか。それとも楽しかった?

小川 非常に大変でした。なにしろ、作家100人の505作品を読むとなったら、通常の読書ペースでは半永久的に終わりません。隙間の時間はすべて、小説を読まなければいけなくなりました。

駄作を読むのが苦痛なのは当然ですが、逆に傑作だったら、それだけ丁寧に読まなければなりませんから時間もかかる。空いている時間すべて小説と向き合うなんて、人生初めてのことです。

いままでは講演や執筆でどんなに多忙なときでも、夜や休日は休むことができましたが、この本の作業に取り掛かってからは、「今日は音楽を聴いてゆっくり過ごそう」とか「今夜はコンサートに行こう」ということができなくなりましたね。

高得点をつけている古井由吉さんや北方謙三さんの作品なんか、仕事ではなく、時間があるなかで楽しめたらよかったなとつくづく思いました(笑)。

――亡くなった作家は除いて、現役の作家だけに絞ったのはなぜですか。

小川 2000年に飛鳥新社から出版された、福田和也さんの『作家の値うち』を踏襲したということもありますが、それ以上に自分自身の覚悟を決めるためです。

亡くなった作家だと気楽に何でも言えますが、現役の作家だと、論評をする側にもそれなりの覚悟が求められますから。

――本書は小川さんの「覚悟の書」なのですね。福田和也版と違って、論評と同時にストーリーをかいつまんで紹介してくださっているから、「この小説読んでみたいな」と思うものがいくつもありました。

小川 作業を手伝ってくれた詩人の石村利勝君にも同じことを言われました。
「福田さんの『作家の値うち』が出た当初に買ったけど、購買意欲がそそられるというタイプの本じゃなかった。でも、君のは論評されている作品を読みたくなるね」

担当編集の小林徹也さんも打ち合わせで、「編集上の確認作業ということもあるんですが、触発されてけっこう何冊も読んでしまいました」と言ってくれたのが嬉しかったですね。

はじめはとくに方針もなく、無我夢中で、読んでは書き、書いては読んでを繰り返していました。福田版は鋭い寸評に特長があるんですが、私のほうは小説を読むとっかかりになるよう、ある程度、本の紹介も兼ねることにしたんです。

点数の最終調整に苦労

――小川さんの論評、採点に触発されて読んでみて、「小川さんは30点だけど、自分だったら80点だな」とか、自分の点数と比較したりしても、この本は楽しめますね。

小川 切って捨てるように書かれていると、かえって読みたくなる人もいるでしょうね(笑)。
熱狂的なファンが多い京極夏彦さんのある作品に15点をつけているので、「この作品の良さがわからない小川はだめだ!」という人が絶対出てくる。それでいいんです。あくまで私の主観ですから。

本書では、以下のような基準で採点しています。

90点以上:世界文学の水準に達している作品
80点以上:近代文学史に銘記されるべき作品
70点以上:現代文学として優れた作品
60点以上:読んでも損はない作品
50点以上:小説として成立している作品
49点以下:通読が困難な作品
39点以下:人に読ませる水準に達していない作品
29点以下:公刊すべきではない水準の作品

巻末には採点一覧があるので、20点、30点をつけられている作品を読んでみて、「自分なら80点」と思ったら、ぜひ私が80点をつけている作品と比較してもらいたいですね。

低い点数の作品であっても、私としては厳正を期したつもりですが、80点以上は近代文学史に銘記、90点以上は世界文学と謳ってしまっているので、70点台後半以上の点数については、かなり調整に苦労しました。

たとえば、つまらない作品を立て続けに読んだあと、おもしろい作品に出会うと、すごくよく思えてしまう(笑)。そのときの印象で88点とか高得点をつけるのですが、ひと月、ふた月経ってくると、高得点をつけたのに印象に残っていない作品がある。本当におもしろかった作品は、時間が経っても記憶に残っているものなんですね。

なので、読んだ瞬間のおもしろさとは違う、記憶のなかに残っている作品像で、点数を最終調整しました。

0点をつけた理由

――カズオ・イシグロの作品は軒並み高得点ですね。

小川 翻訳だから、本当は不公平なのですが、やはり素晴らしい作家ですね。仮に、カズオ・イシグロさんがノーベル文学賞の受賞基準だとするならば、村上春樹さんの受賞は無理ではないかなあ。

昔、いまの村上春樹さんのように、井上靖が毎年のようにノーベル賞を取ると言われて記者が自宅に押し掛けていた時期がありましたね。川端康成が取って、順当にいけば三島由紀夫でしたが、94年に大江健三郎さんが取った。

もし安部公房が生きていれば、どちらが取っていたか微妙なところだったと私は思っていますが、大江、安部と比べたら、井上靖の受賞はその頃から私は無理だと思っていました。井上靖が取るなら、司馬太郎が受賞したほうがまだ自然な気がします。司馬さんの作品なら、英語でもあの血湧き肉躍る感じは伝わるんじゃないかな。

そういう意味で、村上春樹さんは井上靖と似た部分があって、日本国内のテレビ、新聞によって過剰に期待を演出されてしまっている部分がある。

――毎年ノーベル賞の季節になると、熱烈読者だという連中が、酒場などに集って発表を待っているシーンがテレビで放映される。あれを見ていると、バカバカしくなります。

小川 あれは私も嫌いです。

――桐野夏生さんの『ナニカアル』、大江健三郎の『セヴンティーン/政治少年死す』などは0点がつけられています。いくらなんでも、少し極端な評価とも思えるのですが。

小川 読むに堪えないとか、中身が薄いとかいう作品には、失礼ながら17点とか20点とかいう点数をつけてさせてもらいました。0点はそういうクオリティー以前に、作家としてやってはいけないような、インモラル(道義に反すること)な小説につけています。

たとえば桐野さんの『ナニカアル』は、作家・林芙美子の従軍時代を描いた作品ですが、彼女を反軍イデオローグで、前線で不倫に狂う女として描いています。アマゾンのコメントを見ると、「林芙美子がそんな人だとは知らなかった」なんて書かれている。

しかし、宮田俊行さんの林芙美子の伝記『林芙美子が見た大東亜戦争』(ハート出版)を読めばわかりますが、桐野さんのは林芙美子像を全く歪めたものです。林芙美子を冒涜しているし、歴史の解釈権を超えていると思います。

大江さんの『セヴンティーン』も同様です。社会党委員長だった浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢をモデルにした小説ですが、もし山口二矢が生き返って『セヴンティーン』を読んだら、冗談抜きに大江さんを殺しに行くと思いますよ。
「死人に口なし」をいいことに、山口二矢をこれでもかというほど薄汚い下等な人物に描いている。大江さん自身がモデルと思しき勇気ある青年が、眼力で山口二矢を退散させるシーンも出てきます。

『セヴンティーン』第二部を掲載した「文學界」の版元である文藝春秋と大江さんに右翼団体から脅迫状が送られてきたので、大江さんは怖がって、長い間、第二部を封印してしまいました。単行本に収められたのは二〇一八年になってからです。

そんな臆病な人が、『セヴンティーン』のなかでは勇気ある青年に描かれ、山口二矢を退散させるのですから、苦笑するしかありません。

それでも、「いやいや、そんなことはない」と再評価する人が出てくれば、それはそれでいいと思います。そうした酷評や異議申し立てを許容し合うことが、表現の自由というものだと思います。

石原慎太郎は天才

――石原慎太郎さん、村上龍さん、宮本輝さん、北方謙三さんなどは、軒並み高得点ですね。

小川 いま挙げた作家はもう横綱クラス、質・量ともに間違いありませんね。

とくに、石原慎太郎さんはすごい。昔読んだ作品も、今回読み直しましたが、やっぱりおもしろい。

石原さんが2017年に書いた『救急病院』は、脳梗塞になったときの経験をもとに書かれた小説ですが、何だかひょろっといい加減な感じで始まるのに、気づくと一気に読まされてしまっている。若い作家に限らず、大家であっても、通読するのが苦痛な作品がありますが、読者を自然に小説のなかに引き込むのは、作家が最低限身につけるべきエチケットだと思う。若い作家は全員、石原さんの小説を教科書として研究すべきでしょう。

石原さんといえば『「NO」と言える日本』を筆頭に、評論家のイメージが強いですが、生粋の作家なんです。二、三年前にお会いしたとき、こう言っていました。

「大江は、物語をつくるのが苦手だから、ある意味かわいそうなんだよ。でも僕は、いくらでも思いついてしまう」

石原さんを政治家としてしか知らない人は「何を言ってんだ」と思うかもしれないけど、まったくそのとおりなんです。

初期の作品を見ると天才です。もう強烈で、生き物のような文章を書く。石原さんは保守政治家で、発言も強硬だから、ある時期から文壇からは完全に黙殺されてしまっていますね。石原さんはトータルで見て、大江さんよりも作家としては上だと思います。少なくとも、同格としてみるべき作家です。

平成後半からレベルが低下

――100人の作家のなかには、小川さんが未読の作家も多かったですか。

小川 半分以上は読んだことがなかったですね。私のなかの「文学」は、昭和の大家たちで一度終わっているんです。昭和の大家最後の世代で、心から愛読していた池波正太郎や司馬遼太郎、井伏鱒二、永井龍男なども、平成が始まった10年でほとんど亡くなってしまった。

こうしてまとめて読んでみると、現役の皆さんにもいい作品がたくさんあり、それは嬉しかったですよ。ただ、平成の後半になると筆が荒れている作家が増えている印象です。桐野夏生さんなんかは、筆力は落ちてないのに作品の質はひどくなっている。

――ぼくなんかは国内外にかかわらず、作家としてデビューした初期の作品は読むけど、何作かで、もう読む気が失せてしまう作家が少なくないですね。とくに、ミステリーにはそういう作家が多い。

小川 別に、マンネリでもいいんです。有栖川有栖さんは、偉大なるマンネリだと思いますよ。でも、作品の品質はきちんと保証されています。一方で、ある時期から極端に点数が低くなっている作家がいる。実際に、つまらなくなっているんです。

たとえ枯渇しても、司馬遼太郎のようにエッセイストとして一流のものを書く、あるいは、北村薫さんのように文芸評論家としていいものを書くなど、いろいろな生き方がある。

川端はノーベル賞を取ったあと、朝から晩まで来客で忙しくなり、小説を書けなくなった。それでも、死にものぐるいで『たんぽぽ』(未完)を書いていた。ボロボロになりながらも、限界に挑戦している。痛ましくも崇高な姿です。そういう覚悟がないのなら、筆を折ったらどうかと思いますね。

一方で、編集者の問題もあります。私の採点基準で80点取れていた作家が、60点水準の仕事をし始めたら危険信号です。編集者がテコ入れをして、改善していかないといけない。もう一つの問題が、平成に入って、書けない人が文壇の中核になり始めたこと。この傾向は、渡辺淳一さんあたりから始まった気がします。

山崎豊子が盗作疑惑から文芸家協会を除名されたとき、福田恆存が文芸家協会を批判しました。
「山崎が除名されたのは、文壇のお偉方と酒を飲んだり、ゴルフをしていなかったからだろう。いまの文壇は腐りきっている」と。こんなことを書くから、福田は文藝春秋以外に書く場所を失っていくのですが(笑)。

それでも、当時の文芸家協会の理事長だった丹羽文雄さんは書ける作家で、文壇政治もこなしていた。

ところが、たとえば平野啓一郎さんのように、失礼ながらもともと力量に乏しい作家が、文壇のなかでそれなりのポジションにつくようになると、低いところに基準を置かざるをえなくなってしまう。

――しかも、そういう人たちが、最近は文学賞の選考委員になったりしている。

小川 そうなんです。この本を書いていて気がついたのですが、文学賞を取っていないほうがいい作品が多い(笑)。とくに直木賞はよくない。80点、70点取っている作家なのに、急に40点に下がったと思ったら直木賞受賞作だった、なんてことがよくありました。まるでよくない作品を狙っているかのように(笑)。

文壇の堕落をリセットするきっかけに

――芥川、直木賞は作品の絶対評価ではないので、運、不運はあります。いい作品が多かった時は落ちるとか。だから、前作のほうがよかった、今回は前回よりは劣る作品だけど賞をあげよう、なんてことがけっこうあるようです。

小川 それは分かるけれど、程度を越えていると思いますよ。2020年に、馳星周さんが『犬と少年』で直木賞を受賞しましたが、その典型ですね。デビューから20年以上経っての受賞で、悪を描くノワール小説が彼の真骨頂なのに、ヒューマンドラマで筆の冴えもない作品です。

馳星周さん本人も、功労賞のようなものかなと言っていたけど、やっぱり『不夜城』でバチッと実力を認めるべきだったでしょう。

基本的には、賞は選考委員の合意がないと成り立ちませんから、斬新なものに対して根強く反対する人が出てしまう。すると、どうしても平均的な作品が受賞する、という面はあるんでしょうね。

――昔、瀧井孝作さんが芥川賞の選考委員だったとき、志賀直哉を尊敬していた人だから、ああいう小説しか絶対認めない。ほかの選考委員も困ってしまうということがあったようです。しかも選考委員は自ら辞退してもらうしかなくて、文藝春秋から「辞めてください」ともいえない(笑)。

小川 『太陽の季節』の芥川賞をめぐって佐藤春夫らが反対したというような話なら、一種のドラマ性もあっていいと思いますが、先述したように、いまは選考委員自身が書けなくなっているケースが多い。

文学賞の内実はよくわかりませんが、文学賞そのものが意味をなさなくなってきている気がします。

文壇を維持するために、賞を乱発している。あれだけ文学賞があったら、力のない作家でも、どこかには引っかかるでしょう。受賞者と選考委員がお互いに授賞し、受賞しあっているケースもある。こういう受賞システムを離れている作家のほうがいい作品を書いています。古井由吉さんは、かなり早い段階で全ての賞を断っていますね。

厳しいことを言うようですが、いまの文壇や文学者は不真面目すぎます。でなければ、私も現役作家の作品にいちいち点数をつけるなんて、本来下品な仕事を引き受けたりはしません。私もそれは自覚しています。

私はクラシック音楽が本来の専門ですが、ヨーロッパでは、権威ある音楽評論家によるオーケストラランキングが毎年出されます。でも、個人を評価する指揮者ランキングとか、ピアニストランキングのようなことは権威筋はしません。失礼ですから。そんなことしなくても、みんな自分の限界に挑戦して、聴衆や批評の恐怖を克服しつつ、真摯に仕事をしています。

主流の作家たちが真摯に切磋琢磨している文壇であれば、それに点数をつけるなんて、私だって抵抗を覚えますよ。主要な出版社をすべて敵に回しますから、物書きとしては最もやりたくない愚の骨頂ですし。他の誰かがやってくれたらいいのにと思った(笑)。

それでも、やらざるを得ない現状がいまの文壇にはある。実際にこの本を書いてみて、手前味噌ですが、いまの文壇に必要な本だと感じました。

自浄能力がなさすぎるんです。平気の平左でこんな傷の舐め合いをやっていたら、読者に対しても失礼だし、“文学”に対しても失礼です。

この本が、そういった文壇の堕落をリセットするきっかけになればと思っています。

(初出:月刊『Hanada』2022年2月号)

小川榮太郎

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