「歯がゆさはありましたよ」現役引退した日本ハムの“アイドル”が漏らした苦悩

インタビューに応じた元日本ハム・谷口雄也さん【写真:荒川祐史】

谷口雄也さんが語る現役引退のリアル「とっくに覚悟はできていた」

昨季限りで現役を引退した元日本ハムの谷口雄也さんが「Full-Count」のインタビューに応じ、引退を決めるまでの心の揺れや、“アイドル選手”として注目されることになったプロ人生を振り返った。戦力外や引退について「とっくに覚悟はできていた」という中で、現役最後となったシーズンをどのような思いで送っていたのだろうか。

10月24日、谷口さんは宮崎で行われていたフェニックスリーグから帰京し、翌日スーツを来て千葉県鎌ケ谷市の球団施設に行くようにと告げられた。

「もう、何があるかはわかりますよね。スーツで鎌ケ谷にと言われたとき、とっくに覚悟はできてました。スパっと終われる選手でいようと思って、ここ数年はやって来たので。だから『来年は契約しません』と言われて、即答でした。『引退します。11年間ありがとうございました』ってその場で言いましたから」

谷口さんは2010年のドラフト5位で日本ハムに入団。同期にはやはり今季で現役を退いた斎藤佑樹投手がいた。4年目の2014年から1軍での出番は増え、チームが日本一となった2016年には自己最多の83試合に出場し、打率.254。代打での打率.333はリーグ3位という好成績を残した。順調にステップを踏んでいると思われたこの年、落とし穴があった。

2軍の試合で、膝を外野フェンスにぶつけた。レギュラーを目指す立場としては、休んでいるわけにはいかなかった。無理がたたったのか怪我は悪化し、テーピングの連続に負けた皮膚まで壊死する状態に。翌春、右膝の靭帯をつけなおす大手術を受けた。1シーズン試合から離れ、必死のリハビリの結果、2018年には1軍復帰を果たした。ただ出番ははっきりと減った。2軍で打ちまくっても、1軍の扉は開かない。居場所がなくなっていた。

「2020年のオフから『次の1年で終わるだろうな、ファイターズでは最後になるだろうな』と思っていました。チームはレギュラーが決まっていて、僕の肩身は狭いなと。それは自分では変えられない部分です。ここも1つの社会、会社というか……。何かを押し殺してやっている感じは常にありました。はっきり言えば、チームのためとか全く考えませんでした。いかに自分を良く見せようかと思ってやっていました」

インタビューに応じた元日本ハム・谷口雄也さん【写真:荒川祐史】

「ここで離脱したら、もう戦力外の筆頭候補だろ」

覚悟を胸に迎えた2021年は、試練から始まった。1月の自主トレで、肩に引っかかりを感じた。「ここで離脱したら、もう戦力外の筆頭候補だろ」。そんな思いで、だましだましやることにした。5年前、膝を怪我した時と同じだった。休んでいれば、チャンスはどんどん減っていくのだ。

「4月はキャッチボールをしても、10メートル投げるのがやっと。キャッチボールも出来ずに試合に入るとか、力を温存してシートノックから全力を出すとか、その中で自分のできることをやろうと思っていました。後悔したくないからです」

日本ハムは新陳代謝が早いチームだ。ドラフト指名も高卒が中心で、どんどん若い選手が入って来る。若いうちからまとまった出場機会を与え、見極めていく。そのなかで11年目、ベテラン寸前の選手に与えられる出番は少ない。せいぜい2~3試合に1回の代打や、指名打者が出番となった。

「そう思えば思うほど結果が出ない。やらなければいけないのにというもどかしさが凄くて……」。昨季、谷口さんが2軍で残した成績は58試合で打率.244、3本塁打。1軍では8試合、12打数2安打が全て。覚悟を決めるには“十分”な数字だった。

「夏前から、もうこれは『呼ばれる』ものだと思っていましたよ。でもそんな中で、素直に野球選手でありたいと思ったんです。できないならできないなりに務めようと。だから6時くらいには球場に来て、7時前には動き始めていました。お風呂に入って温めて、ストレッチして。1日動くための準備は毎日欠かさずやりました」

誰よりも早く球場に来た。隣の寮に住んでいる若手より早くグラウンドに出て、体を温めた。それで出番が増えるわけでもない中、そうして“やり切れた”原動力は何だったのだろう。

「小学校1年生から野球をしてきて、それが終わるかもしれないという瀬戸際です。プロ野球に大した成績を残したわけでもない。『やり遂げたこと』を最後に残したい、キレイに終わりたいという一心だけでしたね」

インタビューに応じた元日本ハム・谷口雄也さん【写真:荒川祐史】

「アイドル選手」の苦悩と感謝…「いい時も悪い時も名前が」

引退を即答した場で、翌日の西武戦で現役最後の打席に立たないかと打診された。戦力外通告を受ける前日のフェニックスリーグでは4打数2安打、1盗塁。まだまだ体は動く。荷物をまとめ、札幌へ向かった。

「肩さえ大丈夫なら、トライアウトを受けていたと思います。最後に距離は投げられるようになりましたから。でもどうしても送球に強さが出ない。それは自分が一番わかっていましたからね」

10月26日の札幌ドーム。7回2死無走者で出番が回って来た。いつもよりゆっくり、味わうように準備をして、もうやり残したことはないと向かった打席。ところがいざ立つと、涙があふれて来た。「これはヤバい。ボールが見えなくなる」と初球を叩き、左前への安打とした。急に決まった引退出場にもかかわらず、スタンドには、自分の名前が書かれた応援グッズがたくさん揺れていた。

入団時からプロ野球選手とは思えぬ小顔、童顔で人気を集めた。「谷口きゅん」の愛称も定着し、女優の剛力彩芽似と記事にされることもあった。春のキャンプ中は連日プレゼントの嵐。雑誌の人気投票や、球団の「彼氏にしたい選手権」では上位常連で「アイドル選手」と見られた。

「少なからず歯がゆさはありましたよ。知名度に、なかなか野球の実力で追いつけないのは。でも終わってみて思うのは、野球選手じゃなければこんな経験は出来なかった。自分の名前がメディアに載ってどんどん大きくなって。いい時も悪い時も名前が出るのがプロ野球選手だとよーくわかりました。僕の11年間を華やかにしてくれたのは、ファンの皆さんとメディアのおかげ、そう思っています」

今年からは、札幌で勤務する球団職員となる。2023年に開場する新球場「エスコンフィールド北海道」のPRや、少年少女に野球を教えるベースボールアカデミーの業務に就く予定だ。野球を学んで、いつかは指導者になってみたいという希望もある。

「野球が上手くなる方法は、人の話を聞くことだと思っています。『元プロ野球選手』の肩書がなくても、話を聞いてもらえるような人間になりたいですね」。苦しんだ数年間は、まだまだ続く“野球人生”できっと糧になる。(羽鳥慶太 / Keita Hatori)

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