福島選出の高校生平和大使 「核の恐怖 私が伝える」 祖父らの被爆体験たどり決意 「核廃絶実現する日まで」次世代へ平和のバトンつなぐ

原爆ドーム周辺を巡って広島原爆に遭った祖父らの足跡をたどる橋本さん。祖父の平和への思いをつづったノートを手に「平和のバトンをつなぐ」と決意を語った=昨年12月、広島市

 昨年12月中旬。被爆地広島は、夜に雪が降るほど冷え込んでいた。核兵器廃絶を求めて国内外で活動する第24代高校生平和大使に選ばれた福島県立福島高1年の橋本花帆さん(15)は、大使の結団式に合わせて広島市を訪問。原爆に遭った祖父と曽祖父の足跡をたどっていた。手には、祖父から被爆体験や平和への願いを聞き取りしたノート。「二度と戦争や原発事故を繰り返さない。核の恐怖や平和の尊さは私が伝える」。そう決意を新たにしていた。
 橋本さんは福島市で両親と3人暮らし。2011年3月11日の東日本大震災発生時は5歳だった。東京電力福島第1原発事故で放射性物質が漏れ出し、避難するまでの5日間、常時マスク着用を強いられた。子どもは外出を控えるよう行政などがラジオで呼び掛け、幼稚園の遊具で友達と遊んでいた日常はなくなった。
 「放射線は危ない。早く逃げなさい」。広島原爆に遭った福島市の祖父や広島で暮らす親戚たちがすぐに連絡をくれた。放射能の恐ろしさを肌身で感じていたからこその言葉だった。
 町は地震でがれきが散乱し、自宅周辺は放射線量が高いホットスポット。親戚が暮らす福岡に母と2人で避難した。父は教員だったため、福島に残った。
 恐怖心は避難先でも拭い切れなかった。翌12年8月6日。両親は、原爆の惨禍から復興した姿を見せて娘を勇気づけようと、もう一つの被爆地・長崎市に家族旅行に出掛けた。
 大浦天主堂など観光地を訪問。「長崎はこれだけ復興を遂げたんだよ。福島もきっと大丈夫。元に戻る」。母は緑生い茂る街を見つめて語った。すると、橋本さんに笑顔が戻った。母にとっても、長崎が“福島復興”への希望だった。

家族旅行で大浦天主堂を訪れた橋本さん。両親は原爆から復興した長崎の姿を見せて娘を勇気づけようとした=2012年8月、長崎市(橋本さんの母薫さん提供)

 大震災から約1年半後、親戚が暮らす被爆地・広島市に引っ越した。両親や親戚は、幼い橋本さんが原爆の写真を見たり学んだりして原爆被害と原発事故が結び付かないか不安だった。
 家族らは原爆について多くを語らないことにした。それでも小学校で平和教育を受け、原爆について学ぶ機会はあった。橋本さんは「原発事故」が理解できていなかったが、やはり「原爆」と結び付いた。福島を離れなければならなかった理由は、人間がコントロールできない“何か”が起きたから。原発と原爆-。「二つが重なってコントロールできない同じような物」に感じられ、怖かった。
 小学3年の頃、父が米国の日本人学校で教えることになった。家族3人で3年ほど移住。福島から来たと話すと、「アンラッキーだね」。原爆の話になると「原爆が戦争を終わらせた」。心無い言葉を掛ける人もいた。日本では核兵器は非人道的で絶対に使用してはいけないと学んだが、米国ではそうではなかった。当時は言い返す英語力もなく、「悔しかった」。
 小学6年で故郷の福島に戻った。祖父に米国での経験を話すと、ほとんど語ってこなかった被爆体験や平和への思いを話してくれるようになった。「広島に行こう」-。祖父はこう言って橋本さんを連れ、広島平和記念資料館や平和記念公園を案内した。

 ■「核廃絶実現する日まで」 次世代へ平和のバトンつなぐ

 核兵器廃絶を求めて国内外で活動する高校生平和大使に選ばれた橋本花帆さん(15)=県立福島高1年=は12歳の時、広島原爆に遭った福島市の祖父に連れられ、広島市の広島平和記念資料館や平和記念公園を案内してもらった。祖父は多くを語らず、黙々と公園内の碑などを巡ってくれた。
 それから3年-。橋本さんは祖父の平和への思いを受け継ごうと、高校生平和大使になった。昨年12月、大使の結団式に合わせて広島市を訪れ、祖父らの被爆当時の足跡をたどった。
 祖父から託された思いを記したノートには、こう書かれている。〈平和のバトンをどうかつないでほしい。二度と核による過ちを犯してはならない〉
 橋本さんが最初に訪れたのは広島赤十字・原爆病院。祖父は被爆当時1歳ほど。原爆投下後、同病院に勤める曽祖父に背負われ、宮島から市内に入った。
 〈日赤病院は自分にとっての原爆投下、人々の苦しみ、悲しみ、復興…全ての象徴〉。橋本さんは病院の被爆遺構で、爆風によってゆがんだ「窓枠」を見上げた。「祖父が話してくれたことが、現実味を帯びて感じられた」
 3年前に祖父が案内してくれた道を再び歩く。原爆ドーム前を流れる川にふと目を向けた。「当時は想像を超えるくらい悲惨だったんだろう」。祖父の体験や思いを「受け継ぐ」立場から、高校生平和大使として「発信する」立場となり、決意を胸に訪れた今回は、祖父と曽祖父の体験が以前より想像できた。
 3年前は、たった一発の爆弾で多くの命が奪われた「恐怖」が大きかったが、今回は平和大使として「使命感」を抱いていた。
 祖父は広島で原爆に、福島では原発事故にも遭い、放射線による被害を2度経験した。原爆の体験など思い出したくないことも話してくれた。それは「伝えたいことがあったから。(祖父たちと)同じ悲惨な思いをする人を出したくない。二度と繰り返さないように次世代に伝えるのが私の役割」だと思う。

祖父らゆかりの広島赤十字・原爆病院の被爆遺構「ゆがんだ窓枠」を訪れ、被爆当時に思いをはせる橋本さん=昨年12月、広島市

 原爆によって、長崎・広島は放射線被害を受けた。福島も「原爆と規模は違う」けれど、大震災の影響でたくさんの人が亡くなった。いまだに帰れない人もいる。震災でつらい経験をしながら思いを「伝えよう」とする大人の姿を見てきた。「だからなのか、つらさ以上に使命感がある」
 原発事故を経験した被爆3世-。小学生の頃、3年ほど暮らした米国では核兵器に肯定的な意見をじかに聞いた。「私だから伝えられること」がある。被爆者の悲願だった核兵器禁止条約が昨年1月に発効し、核廃絶を目指す世界的な動きが進もうとしている。被爆地・広島を訪れた15歳の少女は、高校生平和大使の結団式で決意を語った。「全世界の核廃絶が実現するその日まで根気強く訴え続ける」。歩みは始まったばかりだ。


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