一票に格差があってどこが悪い!|深澤成壽 選挙の度に問題となっている「一票の格差」。昨年10月の参院選もこれをもって違憲だとする訴訟が各地で相次いでいる。しかし、本当に「一票の格差」は問題なのか? 改めて考え直してみると……。(初出:2013年5月号)(本稿は著者の考えに基づき、旧仮名遣いとなっています)

現代のリヴァイアサン

絶対不可侵の神聖祭壇に祀り上げられた恐るべき現代のリヴァイアサン。矢も立たず、槍も通すこと能はざる怪物。それが「一票の格差」である。

衆参両院の議員選挙に於ける、選挙区区割りに起因する所謂「一票の格差」は憲法違反であるとの訴訟が提起され、最高裁は累次に亙り、これを憲法違反であると判示して来た(最高裁判例初出は昭和51年4月)。

「一票の格差」は憲法違反である。直ちに是正されねばならぬ。「すべて國民は法の下に平等」である。従つて、「一票の格差」は許されざる「差別」である。

憲法の振り翳すこの威光の前に、何人も逆らへない。この異様な言語空間が、当代の日本に現出してゐる。

本稿は、ここに見られる司法(最高裁)の不遜と政治の衰弱、言論界の無気力(若しくは不見識)に警鐘を鳴らし、一石を投ぜんとするものである。

「一票の格差」を違憲とする憲法条文は何処に在るか

代議員を選出する選挙で、選挙区によつて一票の重みに不均衡があれば、なぜそれは憲法違反なのか。その法源は何処に、憲法の第何条に存するか、そして其処に示された解釈は果たして正しいのか。我々はこの基本に立ち戻つて考へなければならない。

[憲法第14条 すべて國民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない]

これが、「一票の格差」を「憲法違反」と断ずる根拠である。

然し、ただこれだけの条文から、各選挙区によつて異なる人口と議員定数の不均衡を「憲法違反の格差」と決めつける判示は果たして妥当か(因みに、判決も総務省文書も「格差」と謂はず、「較差」の語を用ゐてゐる。「較差」が正しい。この事案は「比較上の差」であつて「格の差」ではない。マスコミが「格差」と称するのは、心底に悪意を秘めた意図的誤用か若しくは不見識であるが、本稿では皮肉を込めて慣用に従ふ)。

立法府の判断(法律)が、司法府により最終的に否定された事例を寡聞にして私はほとんど知らない。

例へば相続税、所得税などの課税措置に於いては、恰(あたか)も「差別が正義であるかの如く」、資産家や高額所得者は、目をくやうな累進性に依つて歴然と差別されてゐるのが現実である。

その他、サラリーマンの源泉徴収と自営業者の申告制度、生理休暇その他、勤務条件に於ける女性への特別措置など、「法の下の平等」に背馳(はいち)する法令に事欠かぬが、これを最高裁が憲法違反と判示した事例は一件も無い。これが第14条の一般則適用の実態である。

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柔軟な判例

即ち第14条は、「法の下に平等」と、一般則としての大枠を示したのみで、後は立法府(国権の最高機関)の良識に委ねてゐるのである。

「法の下に平等」とは、狭義には法律は万人に遍く平等に適用される、の意であり、法治国として当然の原則であるが、これを広義にとれば、右に見たとほり融通無碍の幅がある。この辺は最高裁も、初期に於いては妥当な判断を示してゐる。

『本条は、人格の価値が全ての人間について平等であり、人種、宗教、男女の性、職業、社会的身分等の差異に基づいて、あるいは特権を有し、あるいは特別に不利益な待遇を与えてはならないという大原則を示したものであるが、平等の原則の範囲内において、各人の年齢、自然的素質等の各事情を考慮して、道徳、正義、合目的性等の要請より適当な具体的規定をすることを妨げるものではない(最高裁大法廷判決・昭和25年10月11日。有斐閣・判例六法Pro-fessional平成25年版による。以下同じ)。』

『本条一項に列挙された事由は例示的なものであって、必ずしもそれに限るものではないが、同項は國民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱いをすることは否定されない。(最高裁大法廷判決・昭和25年10月11日)』

これは穏健妥当な良識的判断と評して良いだらう。

此処に示された幅広い立法府の裁量を許す判例の基礎の上に、どうして選挙制度の「一票の格差」の場合に於いてのみ、厳格な教条的判決が生じたのか。

選挙制度についての憲法の規定と司法の越権

そもそも憲法は、民主政治の基礎を成す選挙制度については入念である。第14条で列記された差別は、憲法の別条に依つて重ねて明示的に禁じられてゐる。

[憲法第15条 ・公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する]

[憲法第44条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない]

普通選挙とは、一般に「身分・性別・教育・財産・所得などによる制限を禁じた選挙」と解されてゐる。

即ち、投票権に於いては、戦前存在した制限選挙──大正14年に普通選挙法が可決されるまで、直接國税を一定額以上納入した男子にのみ投票権が与へられてゐたのだが──斯かる差別は許されない。第44条の但書は、更に重ねてこれを確認したものである。

第15条と第44条だけでなく、改めて別条を置いてゐる。

[第47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める]

即ち憲法は、禁止事項については幾重にも念を押して明示し、それ以外は、第47条に於いてこれを立法府に委ねてゐるのである。

ここまで叮嚀(ていねい)に規定された憲法に基づいて制定された選挙制度を、最高裁は憲法違反として斥(しりぞ)けた。

法の下に平等と云ひ条、選挙と課税措置、この取り扱ひの歴然たる差別、適用の偏頗は(へんぱ)、如何なる思想、如何なる判断に由来するのか。

何れにもせよ、選挙制度に於いてのみ斯かる偏執狂じみた平等原理の「拡大解釈の厳格な適用」を以て、第47条に基づいて制定した立法府の判断を否定するのは、司法府自ら憲法第44条に重ねて一条を付加したに等しい越権であり、俗流世論の大勢に迎合する余りの、最高裁正気の喪失と云ふべきである。

隠然たる潮流有りや無しや

新聞、テレビなど凡ゆるメディアが「格差」批判一色の異様な情景を呈してゐるが、これを遠慮勝ちに疑問視する声なら、先般、わづかに聞くことを得た。

一人はテレビの6チャンネル「朝ズバ」と云ふ番組だつたと思ふが、元特捜検事の若狭勝氏が、この「一票の格差」判決が話題になつた時、法曹家としてはこれに遵(したが)ふしかないが、一國民としては、地方の過疎地への配慮は有つてもよいと思ふと、一言だけ控へ目に異見を述べてゐた。「法曹家こそ異見を述べるべし」、とするのが私見であるが、元特捜検事氏のそれは、洵(まこと)に遠慮がちな独語であつた。

もう一人は、立命館大学教授の加地伸行氏である。産経新聞の2012年12月20日付の「古典個展」と題する所論で、「都市と地方 寄り添うべし」として、「人口基準という、単純な子供向きの多数決絶対の民主主義は(略)法律教条主義に基づく主張であり、それと生きた政治は別なのである。最高裁判決どおりに議員定数を是正すると、地方はえらい目に逢うことであろう」として、漢学者らしく後漢書を引用してをられた。「小人法制を用うれば乱に至る」(仲長統伝)と。

わづか二例だが、控へ目であれ表面に出た二例があれば、その背後にこれに同ずる隠然たる潮流があると見てよいだらう。

原告に正義はない

もう20年前か30年前か記憶も定かでないが、この問題の余りの喧噪、一方的なマスコミ論調に悲憤慷慨遣る方なく、一往著名な幾つかの新聞雑誌、6、7社に投書を送り付けてみたことがある。

小生の文章はおよそ投書欄向きでないことは百も承知だが、それでも一つくらゐは引つ掛かるかと僅かな期待も空しく、見事に全部ボツであつた。と思つたところ、忘れたころになつて一つだけ採用になつた。どの媒体であつたか、これも記憶にないのだが……。

「……若しアメリカ上院の制度に倣ひ、参議院制度に断乎たる斧鉞を加へ、各都道府県三名の定数として構成したとすれば、衆参両院で七百余人の國民代表が協議して議決したこの制度を、わづか15人の裁判官が違憲だから許されぬとして廃棄を命じ得るのか」と記述しておいたのだが、この「断乎たる斧鉞を加へ」の所が「大改革して」と修文されてゐたので、投書欄担当記者がやりさうな事だと苦笑し、それでもまあ採用しただけ益しかと記憶に残つた次第で、その後今日まで、前記ご両所の所感に逢ふまで反対論に寓目したことはない。

然し、表に現れぬ潮流として、この「一票の格差」弾劾の声高な威圧的論調への反感は、声なき声、声に出せぬ声として、必ずある筈である。なぜ声に出せぬのか。なぜその声が控へめなのか。世人一般に、正義は彼ら原告側に在りとの思ひ込みがあるからであらう。然し、彼らに正義はない。本稿はそれを論証してゐる。

都市に貢いできた田舎

少し視点を変へて、田舎の話をしよう。

戦後ほぼ半世紀、田舎はずうと大都市に貢いできたのである。

昭和から平成の始め頃まで、田舎の町村の人口は4月になると、一気に大幅な減少を見せるのが通例であつた。

昭和52年、山梨県南巨摩郡中富町(現在、合併して身延町の一部)の事例だが、人口ほぼ6600程度(当時)の町で、例月平均8人程度の自然減で推移してゐたものが、同年3月から4月にかけて、一度に44人、即ち5倍以上、減少してゐる。高校を卒業した若者たちが就職や進学などで転出するのである。

4月に直ちに転出手続きをする例は寧ろ少ないから、転出実数はこの倍はあるとみてよいだらう。

同年の町内の中学三年生(即ち15歳年齢の人口)は100人丁度であるから、18歳人口もほぼこれと同じとみて、18歳人口の半数以上が、桜咲く春4月、一斉に町外へ散って行くのだ。これはたまたま抽出した一例であり、おそらくこれは全国規模で繰り返された現象である。

彼らの行く先は主として東京、若しくはその周辺の首都圏大都市である。

大都会はいいとこ取り

就職した若者たちは、直ちに大都市の経済活動を支へる労働人口の一員である。同時に、旺盛な消費者として都市の繁栄に寄与することとなる。就職したばかりの子供たちに、さらに仕送りをする親たちも少なくない。高卒の乏しい給料だけでは生活が苦しからうとの親心である。つまり、彼ら少年少女たちは稼ぎ以上に消費してくれるのだから、大都市商業の賑はひは愈(いよいよ)盛んになる訳だ。

進学した子供たちへの仕送りはさらに大変だ。2、3人、東京の大学へ入学させた親で、毎月数十万円送金したなどの例も幾つか聞いた。高度経済成長の時代とは云へ、懸命に働き、涙ぐましくもつましく暮らし(親馬鹿などの評価は別として)、子供への送金も楽ではなかつたらう。私鉄によくある「なになに大学前」の駅周辺の商店街の繁栄は、その田舎の親の苦労の果実を頂戴してゐたのである。

その子が卒業して就職すれば、今度こそ一人前の生産人口にして且つ旺盛な消費人口、大都市の活力の源である。しかし、そこまでに育て上げたのは誰か。

誕生時から乳幼児の保育、町村立の小中学を経て高校まで、地元自治体と親が、手塩(と予算)に掛けていつくしみ、育て上げ、やつと一人前にして、さてこれからと云ふところで、東京などの大都市へ送り出すのだ。

旺盛な生産(消費)活動の全盛期を終へ、定年退職した、若しくは事業をリタイアした高齢者が田舎へ帰つて来る事例も少なくない。固より大歓迎だが、疾病罹患率の高い高齢者の医療費負担は、地元自治体の国保に掛かつてくる。幼少期と高齢期が田舎の分担だ。

大都市は、良いとこ取りではないか。

これを延々と戦後半世紀、集団就職の中学生が金の卵などと持て囃された時代から例年、続けて来たのである。

大都市の今日の繁栄を築き上げ、支へて来た基(もとい)となるべき人材、人的資源(と消費資金)を供給して来たのは、紛れもなく地方の町や村、そしてそこに残つた親たちなのだ。

然し今はもう、供給する余力は無い。地方は疲弊し尽くし、年老いた老父老母たちが、空家だらけの限界集落にしよんぼりと残つてゐる。

首長も職員も良くやつてはゐるが、地方は疲弊し尽くしてゐる。大都市に捧げ尽くし、貢ぎ尽くしたのである。斯かる現実を、不遜なる原告グループや最高裁判事はどれほど認識してゐるのか。

多数決原理は万能か

民主主義を成り立たせる基礎は、云ふまでもなく多数決原理である。全ての「決定」のプロセスはこれに基づく。然し、この多数決原理が機能するためには、この多数決原理に全員が遵ふと云ふ合意が、その前提としてなければならない。

即ち、多数決原理に基づく民主主義が根付くためには、尠(すくな)くともスタートするためには、当該団体の(国であれ団体であれ)構成員全員がこれに合意し、その決定に遵ふと云ふ自制心を伴ふ成熟が求められる。一定の成熟度の無い民族に民主主義を与へても、薩張り世が治まらぬのはこのゆゑである。

「多数決原理」をどのように使い熟(こな)すかも、この成熟度に掛かつてくる。何でも多数決で決すればよいと思ひ込んでゐる単純な「多数決原理主義」はその思想の、若しくは行動規範の幼児性の発露に他ならないのだ。

親睦旅行の行く先なら、単純な多数決で決めるが宜しからう。然し、少数派の処遇に拘はる重大問題を単純な多数決原理で決する事態が度をこせば、やがて少数派の反乱、分離に至るかも知れぬ。反乱、分離の力も無く、それも不可能となれば、空しく泣き寝入りに沈むか、若しくは鬱勃(うつぼつ)たる敵意と怨念を抱いたまま逼塞するしかない。

多数派は常に、少数派への配慮と、これを包み込む大らかな心を失つてはならない。求められるのは、諸共に生きて行こうとの共同体意識と、穏やかな自制心である。

司法を以て政治を裁く危機

所謂「一票の格差」是正を求めて、長きに亙り精力的に訴訟攻勢を展開してゐる「弁護士グループ」とやらは、「幼児性多数決原理病」と「偏執性平等原理病」の合併症に罹患し、治癒不能の重篤状態にあるやうだ。我が国に於ける民主主義の未成熟、若しくは幼児性は、彼らに於いてこそ最も顕著に現れてゐると云つてよい。

単位人口当たり選出する代議員数が平等であること、即ち一票の価値が民主主義に於ける至上の理念であるとするならば、全国を一区とするしかない。これなら完全な平等だ。最高裁もまた、一票の価値の平等を期する為に、県別区分けによる「一人別枠制」の廃止を求め(即ち必然、全国区への道を示唆し)、次のやうな理想を述べてゐる。

「(衆院議員は)いずれの地域の選挙区から選出されたかを問わず、全国民を代表して国政に関与することが要請されているのであり、相対的に人口の少ない地域に対する配慮はそのような活動の中で全国的な視野から(略)考慮されるべき事柄であって、地域性に係る問題のために(略)投票価値の不平等を生じさせるだけの合理性があるとは言い難い」と(ジュリスト臨時増刊1440号8ページより引用)

これが該判決の核心部分である。

では、その理想の制度(全国区)が実施されればどうなるか。まづ、マスコミに露出度の高い著名人、タレント、タレント擬(もどき)の学者、スポーツ選手、お笑ひ芸人まで、「多彩な人材」がずらりと上位に並ぶだらう。

東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏四都県で人口3570万。愛知、京都、大阪、兵庫の中京京阪神の四府県で2450万人。合はせてほぼ6000万人となるから、全国人口のざつと半数を占めてゐる。然し、議員の占有率が半数で済む筈はない。やつて見なけりや判らないが、おそらく7割に達するのではないか。

残りの大部分を政令指定都市を擁する雄藩(県)が取り、やうやくそのお零れを地方の弱小県が戴くのだが、どれ程お零れがあるか。議員一、若しくはゼロの県が続出するだらう。

2021年の衆院選でも、弁護士グループが全国289の小選挙区を対象に全国14の高裁と高裁支部で1日に一斉に提訴した。

法律の世界の限界

最高裁判事殿、大した理想を仰せだが、この大部分を大都市出身者で占める人気者集団が「全國民を代表して国政に関与」し、全国津々浦々に散在する過疎地の住人たちまで目配りし、全国土の辺土に至るまでの総合的な維持、発展を適切に担へるか。机上の空論とはこのことだ。

但し、そんな厄介な部分(地方)は、国政に於ける負のお荷物だから配慮するに及ばぬ。切り捨てた方が効率が良いとの考へがあるかも知れぬ。シンガポールはどうやら効率が良ささうだ。問題は此処にある。一連の「訴訟グループ」の思念の中に、意識するとしないとに拘はらず、その動機がおそらく潜んでゐる。

尠くとも辺土と僻地住民への惻隠の情は皆無であり、そのこと自体に何等、痛痒を感じてゐないだらう。有れば、斯かる訴訟は起こさぬ筈だ。

最高裁判事は、云ふまでもなく法律家である。訴訟を起こした「弁護士グループ」も法律家である。両者とも、立場は違へども法律一筋で半生を過ごし、云ふなれば、法律を武器にして利害を争ふ世の揉め事を飯の種にして生きて来たし、これからもそれで生きて行くであらう皆様だ。然し、この世は法律が全てではない。己の生きて来た世界の限界を知るべきだらう。

司法が「政治制度の在り方」に介入し、最高裁が最終決定する今次事案は、重大にして且つ深刻な問題だ。その深刻さを、世人は、いや、当の政治家ですら全く認識してゐない。

行政課題は人口が全てか

行政課題は人口が全てではない。

我が山梨県は人口ほぼ85万人で、下位から7番目の小さな県である。東京の世田谷区は88万人を擁して、これよりやや多い。

古名の「甲斐」一国を以て一県を成してゐる小ぢんまりした山ばかりの小さな県だが、限界集落やら要介護世帯やら、困難な行政課題は一通り揃つてゐる。筆頭は治世の基本たる治山治水であらう。一度豪雨に見舞はれれば河川氾濫、土砂災害、道路寸断、僻地集落の孤立は毎度のことである。

衰退する諸産業について此処で多くは触れぬが、建設業、観光業、地場の宝飾業、醸造業に葡萄や桃の果樹農業、畜産、火の消えたシャッター通りなど、固より第一義的には自助努力であるにせよ、国に申し入れたき儀は山積である。

不公平に絶句

さて、人口で山梨をやや凌駕する世田谷区の行政課題は如何に。区内にどんな産業が有るのか。商店街の振興策なんぞは無用だらう。治山治水事業が有るのか。豊かな住民所得や財政状況、東京都民として共有できる都内のさまざまな医療や文化教育施設、交通機関などの各種インフラなど、政治上の諸元を考慮すれば、その余りの隔絶(公共財享受の不平等も含め)に絶句するしかない。

仮に小選挙区制度であるとして、山梨が県内を3分割して衆議院議員定数3と措定(そてい)すれば、世田谷区も同様、選挙区を3分割して各選挙区の代表たる3名の議員を国会に送り込む必要があるのだらうか。杉並区も渋谷区も新宿区も、以下、東京全区が、域内に夫れ夫れ特殊事情を抱へる27市町村を統括する山梨県と同等であるべきか。

問題はここである。前述した最高裁判決の御託宣「衆院議員は、いずれの地域から選出されたかを問わず、全国民を代表して国政に関与することが要請されている」から、国会議員は一地域の代表ではない。ゆゑに、人口に正比例して選出するのが正義である、新宿選出のガールズ議員が北海道の羆(ひぐま)対策を考へればよいのだと、数の力で押し捲り、単純多数決の採決に付せば、少数派過疎地住民に抗する術はない。政治の重心は圧倒的に都市部に傾き、政治のエネルギーは繁栄地への集約に加速するだらう。

それで良いのか。憲法第14条の一般則は、斯かる拡大解釈の教条的適用が唯一絶対の解か。これこそ本稿の核心の課題である。

統治行為と司法

自衛隊は合憲か否かの訴訟で一時、「統治行為論」なる法理が世上賑はつたものだ。自衛隊は我が国の生死に拘はる重大事である。この自衛隊の存在を、司法の力を以て葬り去らんとした企てが、これに拠つて頓挫した。

「統治行為論」とは一言にして謂へば、司法府が、国家の統治行為をその配下におくのは越権であるとの法理である。

こんなことは、手間暇かけて持つて回つた学説なんぞを調べるには及ばない。健全な常識があれば充分だ。

譬(たと)へば、憲法九条を虚心に読み、現在の自衛隊の戦力を虚心に見れば、これが共存できないことは明らかだ。

では最高裁が、現状に於いて、厳正なる法理(学説)に基づいたと称して、斟酌無用と憲法違反の判決を下し、政府に自衛隊解散を命じたらどうなるか。若しくは、不法の存在たる自衛隊への予算執行の停止とか。慥(たしか)に一往、理屈は通つてゐる。然し、サヨク原告グループが凱歌を挙げるのも一瞬で、直ちに最高裁の驕慢は無惨に砕け散るだらう。

国境海域に危機迫る今この時、そんな寝言を聞いてはゐられない。政府はどうするか。

内閣が緊急声明を発する。

曰く、「国土領海の保全と國民の生命、國民生活の安寧を保持すべき責に任ずる政府として、今次最高裁判決に服すことはできない。自衛隊は引き続き維持し、ここに超法規的措置として当判決を最高裁に差し戻す」。

国家國民が生き延びる手段は、凡そこんなところだらう。これに対して、最高裁に為す術は無い。所詮、「司法」も国家の統治有つてのことなのだ。

「司法の判断」「司法の判断」と、恰もそれが神聖至上、全能の尊いものであるかの如くこれに期待し、国政に拘はる重要事の訴訟が引きも切らないが、斯かる司法至上主義は幼児性の露呈であると、曩(さき)に指摘したところだ。

最高裁判事15名と国会議員722名

さて選挙制度だが、これも「一票の格差」問題を含め、民主政治の基本を成す重大事である。この根本問題について、国権の最高機関たる国会の憲法第47条の規定に基づく議決と、司法の恣意的判断で何れが優越するか。

そもそも、15人の最高裁判事とは何者か。大学法学部の学窓からそのまま法曹一筋の連中である。行政官僚や外務官僚も若干散見するが、何れにせよ、世俗の風や浮世の荒波を知らぬ、閉ざされた、謂はばインナーサークルの出自である。この15人が多数決で、国政の根幹の死命を制しようとしてゐる。即ちそれは、わづか八名の意志で可能なのだ。

一方、国会議員はどうか。衆議院議員の定数480名。参議院議員の定数242名。合はせて722名である。

政治家をぼろくそに云ふのは容易いが、それは天に唾するものである。良かれ悪しかれ、それは現代日本社会の縮図である。各界各層を網羅し、地を這ふ運動の中からのし上がり、衆庶(しゅうしょ)の心を離れて彼らの立場は無い。

職業経歴も千態万様、中には敵国通謀罪常習やら詐欺師と紙一重、銭ゲバ紛ひも散見するが、それもこれも現代社会であり、烈々愛国の士、珠玉の人材にも事欠かぬ。それでなければ国は保たない。インナーサークルの15人なんぞは比すべくもない合議体である。

この特殊職業人15人の多数決を国会の上位に置き、聖なるお告げの如くに持ち回る風潮が彼らを付け上がらせ、政治制度の枠組みにまで容喙(ようかい)させるに至つたのである。

政党はパーティー(部分)であり、政治とは部分利害の調整である

最高裁判事殿はご存じないやうなので教へて進んぜるが、近代民主政治は政党政治を以て営為され、その基礎を成すものは政党であり、政党とはパーティー(part・部分)の謂ひなのだ。これは何も、新来の言葉ではない。古くは聖徳太子さまも仰言つた。

「人みな党(たむら)あり」と。「一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗(むね)と為(せ)よ。人皆党有り、亦(また)達(さと)れる者少し」と。「人皆党有」るのは、神代の昔から変はらない。

悪党、一味徒党、一族郎党などと使ふが、「郷党(きょうとう)」もある。政治家は概ね、「郷党」の輿望(よぼう)を担つて国政議場に馳せ参ずる。「郷党の輿望」とは、敢へて偽悪的に云へば地域エゴである。或いはそれは業界のエゴであり、或いは団体のエゴである。

全国からエゴとエゴが集結し、衝突し、争ひ、説得と理解、総合的見地からの妥協と自制、そしてその熱気の中から個々のパーティー(部分)が一つのパーティー、即ち「党」としての方向、政党の所見、政策として集約される。纏(まと)まらぬ政党もある。綱領も決まらぬとか。

何れにせよ、政治とは個々のパーティー(部分)が基礎であり、一足飛びに、最高裁判決の御託宣「衆院議員は、どこの地域の選出かを問はず、全国民を代表して国政に関与することが要請されてゐる」とは、屁も放らぬ青書生の作文で、生きた政治の話ではない。

固より一国の命運への洞察、国家理念、国防、外交、財政への抱負経綸(ほうふけいりん)、歴史観などが、政略人望なども含めて、その資質有りや無しやが最終的にその政治家の地位を決する。安倍晋三が山口県のエゴの固まりである訳はない。然し紛れも無く、「郷党の輿望」を担つてゐる筈だ。

一つの見解(最高裁判決)が国政(立法府)を隴断する危機

冒頭「壱」に於いて既に述べておいたが、憲法は選挙制度について入念に定めてゐる。ここに司法官が介入し、第14条「法の前の平等」の一般則の恣意的解釈に拠り、別条第47条に拠り立法府が制定した法律を否定するのは越権であり、司法官が憲法に一条を加上したに等しいではないかと、既に指摘しておいた。

ここに「恣意的解釈」と述べたのは、当該違憲判決が最高裁大法廷の多数意見に過ぎず、「唯一絶対の解」ではないからである。幅広い解釈の中の一案に過ぎない。

冒頭引用しておいた初期判例に於いて、第十四条の一般則は柔軟な適用を認めてゐる。選挙区割りに於いてのみ俄に厳格な適用を迫るのは異様な一見解であるが、その「異様な一見解」が多数意見として判示されたのは暴走と評してよいだらう。

選挙区の区割りに於ける都道府県別区割りの否定は度外れの暴論で、思い上がりも度が過ぎやう。

憲法第14条一般則の適用は、下世話に謂へば「理屈はどうにでもつく」のであり(9条と自衛隊を見よ)、原理主義的適用はその一つの所見(理屈)、幅広い解釈の中の偏域の一案なのだ。

それにつけても、これまでの政治の無力を思はずにはゐられない。もつと早くから、政治(立法府)の立場からの反論が有つて然るべきであつたのだ。何かと云へば「司法への介入」と言ひ立てるマスコミの批判を恐れるの余り、この裁判への言及に過度に臆病でありすぎた。臆病どころか完黙であり、寧ろ迎合であつたのだ。その怯懦(きょうだ)と不見識が斯かる事態を招いたのである。

2012年3月23日付日経新聞記事によると、自民党の石破茂政調会長(当時)は「一人が二票を持ってはいけないというのは民主主義の絶対原則。格差を二倍以内に収めないと」とコメントしたとあるが、この事案は、選挙区割りと議員定数の関係で、結果として一票の比重にばらつきが生じたのであり、定義に依つて明示的に区分(差別)された或る選挙人団に二票が与へられるやうな形態と同日に論ずるのは筋違ひである。

民主党の岡田克也幹事長(当時)も、「一人別枠方式の廃止を念頭に党内で討議」と積極的だ。揃ひも揃つての不見識には唯、慨嘆するしかない。

高(たか)が最高裁大法廷の暴走的多数意見に、況(ま)してや己が専門である選挙制度に不当に介入されたにも拘はらず、神のお告げかの如くこれに懾伏(しょうふく)する姿は無様である。

保守系言論界も亦、お粗末の極みであつた。

我が国に於ける民主主義の未成熟、若しくは幼児性は「一票の格差」是正の訴訟沙汰に狂奔する原告団に於いてこそ最も顕著に現れてゐると、重ねて指摘しておく。

彼らは、絶対の正義我に有りとの幼稚な思い込みで、お手の物の訴訟を至る所で連発してゐる。衆を頼み、嵩に掛かつて威丈高に押しまくるその姿に、少数派への配慮、自制、惻隠の情は微塵も無い。数に於ける平等こそ正義。多数こそ正義。それしか無い。地方過疎地住民への嗜虐的性向でもあるのか。歪(いびつ)な人間像の典型かも知れぬ。融和と協調、同朋相助け、僻地辺土に至るまで我がはらからの地との思ひは皆無であらう。

単純多数決信奉と教条的平等原理こそ我が国政治の危機

対応策は無いのか。一案を示す。この問題に特定して、速やかに憲法の部分改正をすることである。

即ち、[憲法第47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める]に、次の条文を加へる。

[二 この場合、第14条前段の規定に拘はらず、国土の総合的な管理、発展に資するため、議員定数の配分については、人口過疎の地域その他、特別な事情のある選挙区等には十分に配慮しなければならない]

この第二項の追加で、平等原理主義の悪用を明示的に封ずるのが最善だらう。それまでは、輿論(政治)の圧力で、これ以上の司法の暴走を遅らせるしかない。現状は、我が国の民主政治の重大危機である。心ある政治家の覚醒を期待したい。本稿、全政治家の必読を乞ふものである。

深澤成壽 | Hanadaプラス

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