「子どもは3歳まで母親と…」の母性神話を打ち破る 研究と調査報道の接点 伊澤理江氏(2019年) [ 調査報道アーカイブス No.81 ]

◆アンフェアな社会構造をえぐり出すインタビュー

調査報道を突き詰めていくと、専門家による研究の成果と重なり合うことがある。両方とも「新しい視点や実験によって、見えていなかったものを可視化する」という共通点があるからだろうか。誰も何も疑わないような社会通念が、実は誰かによって作為的に作り出された結果だったーということもある。

フロントラインプレスのメンバー、伊澤理江氏が2019年11月に「子育て困難社会」シリーズの一環として発表した『「育児は女性のもの」が覆い隠す社会の歪み――見え始めた「母性愛神話」の限界』は、その見事な実例だ。記事は現在もTwitterで拡散され、多くの人に共感を持って読み継がれている。

「母性」の研究で知られる恵泉女学園大学学長・大日向雅美氏に対するインタビュー記事でありながら、育児のつらさは個人や家庭の問題ではなく、社会の構造的な問題であるという事実を浮き彫りにした。「育児は女性のもの」という“常識”を疑い、この常識が戦後の経済成長期に政治や経済界の要請によって人為的に生み出されたことも示し、アンフェアな社会構造をえぐり出したのである。

イメージ撮影:穐吉洋子

◆「3歳児神話」は福祉予算を削除するためだった

出色は「3歳までは母親が育児に専念すべきだ」という、いわゆる「3歳児神話」に関するものだ。そのどこがおかしいのか。問いに対して、大日向氏は答えている。少し長くなるが、重要な部分なので、以下にきちんと引用しよう。

「3歳児神話」は「母性愛神話」の中核をなすもので、その内容は3本柱から成り立っていると私は考えています。①小さいとき、3歳くらいまでが大切 ②そのときは母親が育児に専念すべき ③もし、母親が働くなどで育児に専念しないと、子どもの成長発達が歪む、という考え方です。

このうち、①の「小さいとき、3歳くらいまでが大切」は真実であり、発達心理学的にも大切にしたいと思います。でも、なぜ大切なのかを考えてみたいですね。それは愛される経験が必要だからです。そして、その愛とは、母親の愛ももちろんですが、母親だけではありません。父親や祖父母、保育者や近隣の人など、子どもを大切に育もうとする人々の愛に見守られて子どもは健やかに育っていくのです。それなのに、幼少期に母親の愛情の必要性だけを強調・偏重するところに「3歳児神話」の問題の一つがあると言えます。

その根拠とされたのが、英国の精神科医ジョン・ボウルビィの研究です。20世紀初頭から問題となっていた、欧米の乳児院などで育てられていた子どもたちの発達の遅れや異常を調査し、その原因を「母性的養育の剥奪」に求めたのです。

ただ、その研究が日本に導入・紹介されたとき、ボウルビィの言う「母性的養育の剥奪・欠如」、つまり「温かな養育環境の剥奪・欠如」は「母親不在」に置き換えられました。そして、「女性は家庭で育児に専念すべきであり、それがなされないと、子どもの成長発達が歪む」という形で、②③が強化されてしまったのです。

イメージ撮影:穐吉洋子

ボウルビィの研究は、日本が低成長期に入りかけた1970年代後半に盛んに導入されたのです。当時、政府や与党自民党は「家庭基盤の充実構想」「日本型福祉社会」という政策を打ち出して、介護と子育てを家庭・女性が担うことで、福祉関連予算の削減を図ろうとした時代でした。もっとも、どこの国でも、いつの時代でも、人々の暮らしは常に政策の対象となります。政治や経済の要請と無縁な暮らしはないと言ってもよいかと思います。ですから、それを正確に認識することが必要です。

でも3歳児神話の問題点は、それを覆い隠したことです。研究を政策的に使ったことで、抗(あらが)いがたい絶対的客観的な真理であるかのように用いた……言葉はきついかもしれませんが、結果的に(ボウルビィの研究成果を)ねつ造したことになるのではないかと私は考えています。

◆情緒的に信じて疑わなかったものが崩れ去る恐怖

こうした研究結果を発表すると、大日向氏は「国を滅ぼす女性」などの激しいバッシングを受けた。それほどまでに、母性に対する人々の思い入れは強かった。情緒的に信じて疑わなかったものを崩されることへの怒りと恐怖。それがバッシングの源だったと大日向氏は言う。その構図は今も完全に消えてなどいない。

戦後の高度経済成長期以降、産業構造の変化と共に、人々の暮らしが大きく変わりました。男性は企業戦士として、「24時間、戦えますか」という形で外で働き続け、女性が家を守るという「性別役割分業」体制が敷かれました。それによって日本の経済発展が遂げられた面はあるのですが、そうして男性は「一家の大黒柱」になり、子育ては完全に「女性だけの仕事」になったのです。

これは、経済的・政策的な要請でもあったのですが、問題はそれを隠し、「女性が家庭で育児に専念することが絶対的・普遍的な真理だ」とする価値観として、「母性愛神話」が広められていったことだ、と私は考えています。

◆今もTwitterで共感が広がる

この記事を含む「子育て困難社会」シリーズの記事4本は、以前もこの調査報道アーカイブスで取り上げた。中でも、この『「育児は女性のもの」が覆い隠す社会の歪み――見え始めた「母性愛神話」の限界』は、今も多くの人に読まれている。例えば、Twitterで9.5万人のフォロワーを持つ「ふらいと@バタくさい顔の新生児科医」氏は昨年11月、以下の文をツイートした。

日本の母親を取り巻く環境の過酷さは異常。母性愛は素晴らしいが「神話化」すると一気に母親達を追い詰める。出産育児し始めると女性が抱える不安や浴びる中傷は、母性愛神話から来る物も多い。この母性愛神話は経済成長期が産んだ社会の歪みであり今の状況に明らかに合わない

「ふらいと@バタくさい顔の新生児科医」氏は、これを皮切りに同記事に関する感想を6連投。それぞれのツイートはさらに拡散された。

「ふらいと@バタくさい顔の新生児科医」氏のツイート

伊澤氏のこの記事には、章ごとに次のような見出しが並んでいる。これを眺めるだけで、「子育て困難社会」に潜む、構造的な問題が目に見えてくる。

「育児がつらい」をやっと言える時代に
「妻の愚痴」 本当は愚痴ではない
創られた「育児は女性のもの」
「3歳児神話」が覆い隠したものは何か
「子育ては母だけのものじゃない」
ようやく「真実」が見え始めた

長い時間と労力を投じた権力監視型の記事だけが調査報道ではない。1本のインタビューであっても、社会の不公正な構造を解きほぐし、市民の前に提示した記事は大きな威力を発揮する。この記事は、そのことをも教えてくれる。

(フロントラインプレス・高田昌幸)

■参考URL
『「子育て困難社会」豊富なエピソードで得た圧倒的共感』(フロントラインプレス 調査報道アーカイブス No.15)

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