スティーリー・ダン最後の名盤「ガウチョ」制作費なんと3億4千万円?   1980年 11月21日 スティーリー・ダンのアルバム「ガウチョ」がリリース

__リ・リ・リリッスン・エイティーズ~ 80年代を聴き返す~ Vol.24
Steely Dan / Gaucho__

時とともに輝きを増す名盤、スティーリー・ダン「ガウチョ」

このシリーズで既に、1980年にリリースされたアルバムを20作以上も振り返っていますが、そのほとんどが名盤、そして歴史的重要作であることに、今更ながら驚いています。実にあの頃は濃かったですねぇ。

そして、80年代というディケイドの始まりだけに、出発であったり、転換のきっかけとなった作品が多かったのですが、今回はこれが(一応の)ラストアルバムとなってしまった、“Steely Dan” の『Gaucho』について書いてみます。

発売後40年以上も経っていますが、今の感性、今の時代感覚で聴いても、やはりよいですねー。「古くなっていない」というより、40年前聴いていた時には分からなかった “よさ” が、こちらが成長して、経験を積んで、ようやく分かってきたというのが正しい。ちゃんとした料理における職人のきめ細やかな工夫を、大人になってほんとに美味しいと感じられるようになった、というのに近いかな。

1曲目の「Babylon Sisters」からもう圧巻です。このグルーヴの心地よさ。ドラム、ベース、ギター、エレピのアンサンブルだけで、ずっと飽きずに聴いていられます。特にドラム演奏が素晴らしい。バーナード・パーディ(Bernard Purdie)による「ハーフタイム・シャッフル」という奏法。ふつうのシャッフルは小節の2拍目と4拍目にスネアを打ちますが、これは3拍目に1回だけ。半分だからハーフタイムなんですが、ハイハットワークやスネアのゴーストノート(かすかに鳴らす音)などが難しく、高度な技術を要します。ジェフ・ポーカロが叩く “Toto” の「Rosanna」やジョン・ボーナムが叩く “Led Zeppelin” の「Fool in the Rain」などが有名ですが、これを編み出したのがパーディなんです。このおっちゃんは自分のことを “Pretty Purdie” と名乗り、「ビートルズの21曲は俺が叩いている」などと放言しているホラ吹き男なのですが、ドラムの腕は本物。そして、ポーカロが参考にしたのは、パーディがSteely Danの『Aja(彩-エイジャ)』収録の「Home at Last(安らぎの家)」で見せたハーフタイム・シャッフルなんですが、この「Babylon Sisters」でのプレイはそれを上回ると思います。

Steely Danはプレイヤーに何度もやり直させること、気に入らなければ容赦なくボツにすることで有名ですが、この時のバーディは2ndテイクでOKだったそうです。

この曲のライブバージョンが、1995年にリリースされたアルバム『Alive in America』に収録されていますが、ライブとは言え、随分ノリが違います。こちらはデニス・チェンバース(Dennis Chambers)が叩いていて、彼も名うてのドラマーですが、パーディと比べるとややグルーヴが重い。

「彩(エイジャ)」でつかんだ成功だったが…

とまあ、「Babylon Sisters」のレコーディングは、彼らにしては順調に進んだようですが、実はこのアルバム、Steely Dan史上最大の制作時間とコストを費やしてしまったそうです。ブライアン・スウィート(Brian Sweet)著の『Reelin’ in the Years』という伝記によると、2年間近く、それも週に5日ペースでレコーディングを続け、経費は、100万ドルまではいかないまでもそれに近い金額だったとのことです。1980年頃のドルは今の3倍くらいの価値があったので、300万ドル、ざっと3億4千万も使ったことになります。

6人編成のバンドとしてスタートしたSteely Danですが、元々、ニューヨークの大学で出会ったドナルド・フェイゲン(Donald Fagen)とウォルター・ベッカー(Walter Becker)の二人が中心でした。最初から彼らには、バンドサウンドの充実より、理想とするサウンドの実現のほうが重要だったことは、3rdシングル「Reelin’ in the Years」で、バンド内にギタリストがベッカーも含めると3人もいるのに、セッションミュージシャンのエリオット・ランドール(Elliott Randall)に延々とリードギターを弾かせていることからも明らかだと思います。

1作ずつその理想に近づき、それとともに評価も高まってくると、二人はそうしたやり方をさらに突き詰めていきます。それについていけない、あるいは不満を感じた、ジェフ・バクスター(Jeff Baxter)ら他メンバーは次々と離れていきましたが、二人は意に介しませんでした。

そして、6作目のアルバム『Aja(彩-エイジャ)』(1977)で、彼らはついに、目指してきた理想のサウンドと、それに対する高い評価、さらには商業的成功のすべてを、ほぼ手中にしたのです。特に、理想の音楽と商業的成功という大概は相反するものを両立できたのは、快挙と言えるでしょう。これからは、経済的にもステイタス的にも、もっと自分たちの思うようにやっていける…はずでした。

なのになぜか、その次のアルバム『Gaucho』を最後に彼らは解散してしまうことになるのです。一体何が起こったのか。

のしかかった期待と、重なったトラブル

彼らは1972年の1stアルバム『Can't Buy a Thrill』から6th『Aja』まで、毎年1作ずつ、コンスタントにアルバムをリリースしているのですが、そこから7th『Gaucho』まで3年空いています。デビュー以来初めてのことです。

休んで、充電して、ゆったり構えての3年ならいいのですが、1978年中はオフにしたものの、79年に入るとすぐに『Gaucho』にとりかかります。そこから、前述のように2年もかかったのです。

まず、ありがちな、周りからの期待が、過去最大の大きさで二人にのしかかります。レコード会社などからはさらに売れるものを。ファンからはもっとカッコいいものを。彼ら自身も『Aja』を超えたいと考えていたでしょう。重い重いプレッシャーです。

それなのに、とんでもない事件が起こります。79年のクリスマス頃、ほぼ完成していた、しかも関係スタッフがみんな気に入っていた「The Second Arrangement」という曲の24トラックテープを、アシスタントエンジニアが誤って消去してしまったのです。それしかない唯一のテープ。踏むべき手順を踏んでいればまず起こらないことなのですが、人間には「魔が差す」ということがあるんですね。何週間もの時間と努力と膨大な経費が、一瞬で無に帰してしまいました。もう一度イチからつくり直そうとしたけど、うまくいかなかったようです。

ウォルター・ベッカー、心身の限界?

そこへ、ベッカーのドラッグ依存問題が浮上しました。いつからドラッグを使用していたのかよく分かりませんが、このレコーディング中にひどくなり、しばしば遅刻、また欠席もあったようで、ベッカー自身もそれに悩んで落ち込むという悪循環となっていきました。

そればかりか、ベッカーが同棲していた長年のガールフレンドが薬物中毒で死亡するという事件が、80年1月に発生し、4月にはトドメを刺すように、ベッカーが散歩中クルマにはねられ、右足を何か所か骨折する事故が起こりました。

いやはや。レコーディングが長引いたのは、制作過程でのこだわり以外に、数々の不幸な出来事のせいもあったのですね。

解散の原因は、ベッカーの不調です。Steely Danの音楽は、「録音芸術」と呼ぶにふさわしいと思いますが、たとえ身を削ってでも、作品に心血を注ぐのが芸術家だとしたら、ベッカーは『Gaucho』の段階で、ついにその身が限界に達してしまったのでしょうね。

一方、フェイゲンは意外にタフですね。最終的に『Gaucho』もすばらしい作品になったし、正式解散の1981年6月からわずか1年ちょっとで、『The Nightfly』(1982年10月1日発売)という、またしても名盤の誉れ高いソロアルバムをリリースしたんですから。

カタリベ: ふくおかとも彦

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