80年代のデヴィッド・ボウイ “カルトスターからポップスターへ” は本当か?  合掌 1月10日はデヴィッド・ボウイの命日です(2016年没・享年69)

「80年代のデヴィッド・ボウイ」につきまとう “通説”

通説を鵜呑みにすることほど、ポップカルチャーを愛する者として悲しいものはない。本稿は「80年代のデヴィッド・ボウイ」への偏見を払拭し、これまで以上に楽しんでいただくための文章だ。

80年代のボウイを語る上での常套句は主に二つ、「『レッツ・ダンス』(1983年)以降の創造性の低迷」「打開策としてのティン・マシーン結成と、その不発」というものだろう。

もちろん、70年代の彼のキャリアが音楽的冒険に満ちた輝かしいものであるのは、誰もが認めざるを得ない。だが、上記のような通説は、いくつかの重要な視点が抜け落ちているように思える。

デヴィッド・ボウイ「スケアリー・モンスターズ」ポップスター時代への序章

手始めに、『スケアリー・モンスターズ』(1980年)にはもっと光が当たるべきだろう。批評面でキャリア随一の評価を勝ち得ている「ベルリン三部作」(『ロウ』(1977年)『ヒーローズ』(1977年)『ロジャー』(1979年))を経た後の、ニューウェイブ世代への回答たるアルバムである。ボウイの伝記作家デヴィッド・バックリーが本作を「創造性とメインストリームでの成功の完璧な両立」と喩えているのも大いにうなづける、隠れた最高傑作のひとつだろう。もし仮にこの作風のまま活動を続けていたなら、ボウイのキャリアは「浮き沈み」や「波乱万丈」といった表現とは無縁だったかもしれない。

収録曲「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」では自身の出世作「スペース・オディティ」(1969年)の設定を皮肉る内容が当時話題を呼んだ。歌の主人公であった宇宙飛行士は、実はそうでなく単なる薬物中毒者だった... というストーリーは、彼が70年代を通じて苦しんだ薬物依存からの脱出、すなわちキャリアの総括と変化の宣言でもあった。

ジョン・レノンの死と、失われた “ニューウェーブのスター” としてのキャリア

しかし、この“ニューウェイブのスター” としてのキャリアは程なく終わりを迎える。『ヤング・アメリカンズ』(1975年)でも共演歴がある盟友ジョン・レノンが80年12月に殺害され、悲しみに沈んだボウイは『スケアリー・モンスターズ』のアルバムツアーをキャンセル。スイスの自宅に引きこもりながら、暫し映画俳優としての活動や、他のミュージシャンとの共作が続くことになる。

前者については『戦場のメリー・クリスマス』(1983年5月公開)をはじめ、多くの参加作品の公開年が1983年にあたり、『レッツ・ダンス』(同年4月発売)のセールス面に少なからず貢献していると思われる。後者では、世界的なヒットを記録したクイーンとの「アンダー・プレッシャー」(1981年)が有名だろう。

また、クイーンと同じセッションでは当時ユーロ・ディスコのプロデューサーとして絶頂期を迎えていたジョルジオ・モロダーと映画『キャット・ピープル』(1982年公開)の主題歌を共作しており、『レッツ・ダンス』でも再録のうえ収録されている。このように、彼のポップスター化に至る諸要素は失意からの回復をはかる途上、偶発的にもたらされたものが多いのだ。

70年代と同様、変化を求め続けたデヴィッド・ボウイの80年代

またこの時期、ボウイは『ハンキー・ドリー』(1971年)より約10年所属したRCAとの関係悪化から、EMIに移籍している。そして、特に契約上の縛りがあったわけではないようだが、“変化を求めた” というボウイは『レッツ・ダンス』の制作にあたり、『スケアリー・モンスターズ』から参加ミュージシャンを総入れ替えしている。

特に70年代のボウイを指して “変化し続けること” が代名詞のように語られるが、一方で彼は『スペース・オディティ』以降、直前の作品に参加したミュージシャンを最低一人以上、必ず召集させていた。本作はその原則が崩された点で、実はかつてなく “攻めた” 作品だったとも言えよう。

『レッツ・ダンス』はボウイの想像をはるかに超える成功を収めた。それゆえ、のちの『トゥナイト』(1984年)『ドント・レット・ミー・ダウン』(1987年)は、彼自身がジョーク気味に「フィル・コリンズ期」と振り返るように、確かにボウイらしさをやや抑えたポップアルバムとならざるを得なかった。

これらを経て、彼自身が一番感じていたであろう “キャリアの危機” を乗り越えるべく打ち出されたプロジェクトが、ボウイをあくまで “メンバーの一員” と位置づけるバンド、ティン・マシーンである。

(ソニック・ユース + ピクシーズ)× ボウイ = ティン・マシーン!?

あまり知られていないが非常に重要なエピソードとして「ティン・マシーンはソニック・ユースやピクシーズから影響を受けている」というものがある。

好事家の方にはご存知の通り、ソニック・ユースおよびピクシーズはアメリカの80~90年代のインディ・ロックバンドの代表格である。2組とも、1991年のニルヴァーナのブレイクに代表される “オルタナティヴ・ロック” 隆盛の土台を築いた点で、ロックミュージック史上でも非常に重要な存在だ。ただ、こうした情報は現代からすれば自明ではあるものの、80年代後半時点でのこの2バンドへの世間の注目度は、今とは比べ物にならないほど低かったと思われる。

ティン・マシーンのギタリスト、リーヴス・ギャブレルとの馴れ初めに際し、ボウイが示したリファレンスにはレッド・ツェッペリンやバディ・ガイなどのブルース・ロックのほか、ソニック・ユースやピクシーズが含まれ、中でもピクシーズが当時のボウイのお気に入りだったという。1988年7~8月頃の出来事とされており、ボウイの衰えないアンテナの感度を物語るエピソードである。

ファーストアルバム「ティン・マシーン」の評価は?

以上の情報で、ティン・マシーンを見る目が180度変わった人もいるかもしれない。そして、しばしばティン・マシーンが指摘される「メロディの弱さ」や「即興ベースで作られた意味不明瞭な歌詞」「(ミックス・マスタリングでリッチに仕上げられているが)基本一発録りのラフなサウンド」も、オルタナティヴ・ロックからの影響を鑑みれば何ら不自然なものではないだろう。

セルフタイトルのファーストアルバム(1989年) はスーツ姿のアートワーク、楽曲にやや不釣り合いな “メジャー風の音作り”、そして即興演奏に長けた “うますぎる” リーヴス・ギャブレルのギター演奏もあり、オルタナティヴ・ロック~グランジのプロトタイプとして見るには少しピンボケ気味の内容かもしれない。ただ、発売当時すでに「『スケアリー・モンスターズ』以降でもっともアグレッシブ」「ソニック・ユースと『ステイション・トゥ・ステイション』(1976年)の融合」という批評もあり(しかも後者は、かのローリング・ストーン誌だ)、当時はさほど的外れな評価を受けていないことが分かる。

本作の評判は、のちに1996年のQマガジン「作られるべきでなかったアルバムリスト」といった “ワーストアルバム” 企画の餌食となったことで地に落ちたと思われる。こうした雑誌企画で一過性のおもちゃにされることで後世の目線がねじ曲がるのは、端的に悲しく、本来あってはならないものだろう。

余談だが、ティン・マシーンのギタリストであったギャブレルはその後、90年代のボウイ諸作への参加を経て、2012年からは何とニューウェイブの生ける伝説、キュアーのギタリストを務めるという大出世を果たしている。彼を媒介にさまざまな文脈が繋がり出すさまに、興奮せずにはいられない音楽ファンはきっと多いことだろう。そしてこのギャブレルのキャリアは、音楽ファンに未だに無視され続けているティン・マシーンなしには、間違いなく生まれなかったものだ。

デヴィッド・ボウイの作品・キャリアで知る、“通説” を疑う面白さ

ここまでを通じ、『スケアリー・モンスター』が「カルトスター」と「ポップスター」を両立しうる名盤であること、直後の盟友の死によりキャリアの転換点を迎えたこと、ティン・マシーンが決して「キャリアをリセットするための劇薬・徒花」とは片付けられない面白さを秘めていること―― などを知って頂けたかと思う。

彼の80年代以降のキャリアは、大雑把に表現すると「カルトスターからポップスターへ (80年代)」「その後の長期の迷走 (1990~2000年代)」「『ザ・ネクスト・デイ』(2013年)での復活→最高傑作のひとつ『ブラック・スター』(2016年)発表直後の死去→伝説化 (2010年代)」といった流れでしばしば語られる。

本稿のタイトルにも挙げた「カルトスターからポップスターへ」が本当かといえば、キャリア全史をざっくり語ろうとした場合、決して間違いではない。ただ、本稿を通じて “ざっくり” 理解することの危うさ、無慈悲さ、そして何よりつまらなさを知って頂けた方はきっと多いと思う。通説を疑うのは面白い。ボウイの作品やキャリアは、それをいつも教えてくれる。

カタリベ: TOMC (トムシー)

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