佐世保・針尾無線塔 建造100年 地域の象徴 戦争の歴史伝え続ける 頂上に上ったあの日

高校時代に針尾無線塔の頂上に上った鶴田さん(右)と山本さん=佐世保市針尾中町

 長崎県佐世保市南部ののどかな田園の中にそびえる三つの巨大な塔。同市針尾中町にある旧佐世保無線電信所(通称・針尾無線塔)は今年、完成から100年を迎える。太平洋戦争開戦の真珠湾攻撃を命じる「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」の暗号電文を送信したともいわれており、国の重要文化財に指定されている。
 無線塔は旧日本海軍が総工費155万円(現在の約250億円)をかけて1922年7月までに完成。送信エリアは東京、台湾方面にも及んだ。戦後は海上保安庁が管理し、海上自衛隊と共同で1997年まで使用した。
 完成当時、300メートル間隔で正三角形に並ぶ3基の塔は電線で結ばれていた。塔はいずれも高さ136メートル。針尾無線塔保存会の田平清男会長によると、頂上部には線を固定するため「かんざし」と呼ばれる1辺18メートル、重さ9トンになる三角形の器具が設置されていた。同市教委文化財課などによると、「かんざし」は老朽化に伴い、83年に全て撤去された。

完成から100年を迎える針尾無線塔=佐世保市

 昨年12月、「かんざし」があったころを知る同市潮見町の公民館長、鶴田明敏さんと同市藤原町の歯科医、山本親郎さんが無線塔を訪れた。2人は県立佐世保北高の同級生。60年前の高校2年のころ、同級生の大串昭夫さん(故人)と3人で塔内のはしごを伝って、頂上を目指した。「よく上れたな…」。当時の貴重な写真とともに思い出を振り返った。

 ■「かんざし」目指し はしご550段

 旧佐世保無線電信所(通称・針尾無線塔)がある針尾島は西彼杵半島と西海橋でつながっている。高校2年だった鶴田明敏さん、山本親郎さん、大串昭夫さんの3人は西海橋までバイクで向かった。3基の塔を目にした大串さんが言った。「上ろうぜ」。鶴田さんと山本さんは、仕方なく大串さんのあとをついて行ったという。
 塔内にあるはしごは550段。命綱なしで壁側を背にして黙々と上った。2人の記憶によれば、頂上に到達するまでに1時間はかかったという。
 頂上に着いた鶴田さんと山本さんが景色を楽しんでいると「おーい」と声がした。声がする方に2人が振り向くと、「かんざし」の端に向かって歩く大串さんがいた。手すりなんてなかった。「おっちゃけたら死ぬぞ!危なか!」。山本さんはそう叫んだが、大串さんは怖がる様子もなく、その場に座った。山本さんは驚きながらも、満足そうにほほ笑む大串さんの姿をカメラで捉えた。

塔に上った山本さん(右)と鶴田さん(山本さん提供)

 佐世保市奥山町の橋川達郎さん(87)も頂上まで上ったことがある1人だ。頂上で撮影した写真は今でも見返すことがあるという。
 川棚高3年だった1952年、卒業記念に同級生約10人で挑戦。休憩しながら、塔内のはしごを上った。「かんざし」は真っ赤にさびていた。「落ちるんじゃないかと思って最初は乗れなかった」と振り返る。
 「かんざし」から周囲を見下ろすと、塔の近くに止めてあった自衛隊の車がマッチ箱のように小さく見えたことをよく覚えている。写真は友人が撮影してくれたものだ。
 橋川さんは、長崎市内で看護師をしていた姉=当時(19)=を長崎原爆で亡くした。「戦争はしてはいけない。大切な人を亡くしてしまう」。無線塔には、懐かしい思い出がある一方、戦争について考える場でもあり、複雑な気持ちになる。

旧佐世保無線電信所(針尾無線塔)

 無線塔は一時解体も検討されたが、市民らによる保存運動が展開。歴史的な背景に加え、土木技術や無線技術の面から高く評価され、2013年3月に国の重要文化財に指定された。現在、3基のうち1基(3号塔)の一部が公開されている。高くそびえる無線塔は地域の象徴的な施設であるとともに、戦争の歴史を今も伝え続けている。

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