「遼」を中心にその文化や歴史を描く初めてのドラマに注目!

「燕雲台-The Legend of Empress-」は「遼」を舞台にした時代劇大作。「明蘭~才媛の春~」「孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜」「大宋宮詞(原題)」など同時代の「北宋」を描いたヒット作は多いですが、「北宋」と勢力を競った「遼」を中心にその文化や歴史を描くドラマはこれまでほとんどなく、「燕雲台」が初めてといえます。

「燕雲台-The Legend of Empress-」©Shenzhen Tencent Computer Systems Company Limited

「遼」とはいったいどんな王朝だったのでしょうか?これさえ知っておけばドラマがもっと楽しめる基礎知識をご紹介します。

「遼」ってどんな王朝?

907年に栄華を誇った唐が滅びた後、さまざまな王朝が興亡を繰り広げる五代十国時代が始まりました。そんな中、北方では遊牧民族が兵力を伸ばし、契丹人の国「遼」が覇権を握りました。「遼」の初代皇帝は太祖と呼ばれる耶律阿保機で、渤海を滅ぼした彼は満州からモンゴル高原東部まで広がる帝国を建国。その後、第5代皇帝・景宗を支えて「遼」を強国にした睿智蕭皇后が「燕雲台」の主人公です。

「遼」は「後唐」を滅ぼし「後晋」に協力した見返りとして、「燕雲十六州」(現在の北京市・大同市など中国における要所)を獲得しました。その結果、漢民族を支配下に置いて二元統治する中国史上初の「征服王朝」となり、五代十国時代を終わらせ南方で覇権を握った漢民族の王朝「北宋」と勢力を争うようになりました。

「遼」が行った二元統治とは、遊牧民族は従来の部族制で、農耕を主とする漢民族は官吏を置く州県制で統治するというものでした。その中で、契丹人と漢民族の文化の接触も進み、漢民族から大きな影響を受けた「遼」は、畜産、漁業、狩猟だけでなく農業や都市の建設にも力を入れるようになり、大きく発展していきました。

「遼」ってどんな文化?

北方の遊牧民族は馬に乗って弓を射るのを得意とし、ブフと呼ばれる相撲で力を競ったり、歌やダンスを好んだり、自由な気風がありました。女性たちも戦場で活躍したり、結婚相手を自分で選んだりできる自由がありましたが、漢民族の影響を受けてその文化も変わっていきます。「燕雲台」はこうした遊牧民族と漢民族の文化の違いや融合を描いているのも見どころです。

「遼」の皇帝は季節ごとに狩猟や魚釣りに適した宿営地へと移動していました。これを「捺鉢(なぼ)」といいます。皇帝は騎馬隊に守られた天幕車に乗って移動し、皇帝のいる天幕が政治の拠点となりました。なお、漢民族の影響を受けて首都を造った後も、この伝統は続けられました。

契丹人の宗教観は祈祷師が予言や病気の治療などを行うシャーマニズムに基づいていました。そして、「天」への崇拝から天の神を「テングリ」と呼び、信仰していたとされます。しかし、「遼」を建国してからは仏教・道教の影響も受けるようになり、国内には仏寺も建てられるようになりました。


TEXT: 小酒真由子(フリーライター)

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