山嵜晋平(「なん・なんだ」 監督)- 未来も過去も失った人間は一体どう生きればいいのか?

自殺を止めたことが、本当によかったのかどうか

山嵜:上層階でエレベーターを降りたら、外廊下に風呂椅子に乗って手すりに一生懸命に足をかけようとしている人がいる。びっくりして一瞬どうしようかと思ったんですが、放ってもおけず「ちょっと、ちょっと」と止めに入ったんです。とりあえず家に戻りましょうと、同じ団地にあるおじいさんの部屋に一緒に行きました。

ただ、その時に自殺を止めたことが本当によかったのかどうか今でもよくわかりません。その人は70歳を過ぎていましたが、離婚して子供もおらず、脳の病気でめまいや頭痛に悩まされていて、相当追い詰められているようでした。苦しんで最終的に死ぬ決断をした人を止めるのは僕のエゴじゃないのか? 正義はいったいどこにあるのか? 一般論では止めるべきなのですが、彼にとっては死ぬという正義を選んだわけです。でも僕が通りかかったばかりに、それを止められてしまった。3時間ほど話をして落ち着いてきたので、「また来るから、それまでがんばって生きてや」と言って部屋を出ました。そんな嘘言うのも嫌やなと思ったんだけど、なんか、他に言いようもないし。それ以来、その団地には行ってません。行くのが怖かったというのもあります。 それ以来ずっとそのことが心に残っていました。年をとった時、人はどう生きていけばいいのだろうか? このことを何かの形にできないかと。 もう1つ自分の経験として、昔、認知症の祖父と暮らしていたことがあったんです。母方の祖父で戦争経験者なんですが、僕の顔を見て「兵隊さん、ご苦労さま」って言うんです。祖父が自分のことを忘れてしまったことにショックを受けて、その時の記憶と団地で自殺しようとしたおじいちゃんのことが重なり合った。 大なり小なり人生の時間は決まってる。未来を見ることができず、過去の記憶もなくなった時、人はどう生きればいいのか? 漠然と考え続けました。 この話をそのまま脚本にしたこともあったんですが、それだったらドキュメンタリーにした方がいい気もして、どう扱ったらいいのかなかなか思いつかなかった。それで、一旦は現実と距離を取るためにファンタジーにしたこともあります。おばあちゃんのカメラには幻が写るという設定で、おばあちゃんが死んだ後にカメラを見つけたおじいちゃんがいつか見た幻を追いかけるという話にしたんです。でも実現しませんでした。

他の撮影現場で多忙を極めながらも、山嵜監督は、少しずつ脚本を書いては人に意見を求めていった。5年程前に佐野和宏監督の「バット・オンリー・ラヴ」で一緒になったプロデューサーの寺脇研からの助言で中野太に脚本を託し、具体的な形になっていった。

山嵜:仕事も忙しかったので忘れている時期もありましたが、自分の撮りたいテーマとしてはずっとあって、いろんな人に相談しながら、10年たって映画が動き出したという感じです。最初は「じいちゃんとカメラ」という仮タイトルだったんですが、編集も終わった後、寺脇さんと相談して「なん・なんだ」に決まりました。「オレの人生、何なんだ?」という疑問詞としての「なん」と、彼の人生に起こった災難を表す「なん」という意味もあっていいかなと。

昨日の先に彼らの明日も続いている

キャストには、ピンク映画史上最高傑作と言われる「襲られた女」や「痛くない死に方」の下元史朗が夫の三郎を演じ、「四季・奈津子」で日本アカデミー賞の優秀主演女優賞を受賞し、近年はNHK連続テレビ小説「スカーレット」でも存在感を発揮した烏丸せつこが、妻・美智子を演じる。そのほか、和田光沙、佐野和宏、三島ゆり子などのベテラン勢が脇を固めている。

山嵜:下元さんにお願いするなら高橋伴明監督の「襲られた女」は観るべきだと言われました。あの映画のどうしようもなく情けない男は三郎役に通じるので、どうしても出て欲しかった。烏丸さんは脚本をすごく読み込んでいて、セリフの細かい言い回しなどいろいろ助言をしていただきました。

三郎のライバルという重要な役どころである佐野和宏は10年前に咽頭癌で声帯を失いながら今も監督、俳優と活躍する大ベテランだ。映画の中でも文字盤とかすかな声で会話をしている。

山嵜:僕にとってキャストは外人でもいいし日本人でもいいし、障害があってもなくても、どっちでも普通なんです。街を見渡せばいろんな人が生きているし、逆に、いわゆる普通の人だけの方が違和感があります。「普通」が何かというのは一旦置いておいて、いろんな人が存在している方が僕にとっては当たり前な気がしています。

今回の映画の舞台として、奈良が重要な意味を持っているという。奈良は山嵜監督自身が生まれ育った街でもあるが、映画の中では美智子が不遇な子供時代を過ごした場所として設定されている。

山嵜:奈良という山に囲まれた盆地から逃げ出したかった美智子は、かつての僕自身でもあるんです。十代の頃の美智子は、若草山から生駒山を望み、山の向こうにこことは違う世界、つまり未来があると信じている。一方、ラストシーンでは、美智子や三郎たちは生駒山から逆に奈良の街を見下ろしているんですが、それは二人が過去に向き合おうとしている場面でもあるんです。観念的でわかりづらいと思うんですが、昨日の先に彼らの明日も続いているはずだと。

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