ワタナベマモル - これぞ"ロックンロール実験室"の原点! 27年の歳月を経てソロ黎明期の秘蔵カセットテープ音源が2枚組CDとして復刻!

カセット音源は今に至る一番最初のスタートライン

──このタイミングで秘蔵音源復刻に着手したのは、コロナ禍でなかなか新作のレコーディングが進まないことも理由としてありましたか。

マモル:そうだね。最初は知り合いのレーベルから「CDを出しませんか?」って話が来て何かないかなと考えて、昔出した4本のカセットテープを2枚組CDにするのは面白いかなと思って。でも2枚組で出すのはちょっと大変だってことで、それなら自分で出しちゃおうと。カセット音源を2枚組CDで出すアイディアが浮かんだときから自分のレーベル(MAGIC TONE RECORDS)から出したいと思ってたんだけどね。

──今でもちゃんとCDとして聴ける状態にしておきたいほどマモルさんにとっても愛着のある音源だったと?

マモル:4本のカセット音源をどんなもんだったかなと聴き直してみたら、自分でもけっこう面白く聴けてね。なんだ俺、意外とちゃんとやってたじゃないかって(笑)。当時はそこまで思えなかったもんね。グレイトリッチーズが終わってとにかく何か発表しなきゃって思いで、カセットでガッチャンと録っただけのものだったから。

──宅録は盟友トモフスキーさんの勧めで始めたそうですね。

マモル:トモ君が先にカセット音源を出してたから。まだMTハピネスはやってなかったけど、当時はトモ君のバンドでベースを弾いたり、2人でユニットを組んで一緒にライブをやったりしていて。「マモル君も宅録やりなよ」ってトモ君が言うから「いいね、面白そうだね」なんてことで始めてみることにした。でも宅録のことなんて何も分からないから、トモ君の使ってた8トラックカセットMTR(TASCAM PORTASTUDIO 488)、ローランドのMIDI音源、MIDIキーボードっていう全く同じ機材を買って使い始めてね。そのMIDI音源が僕みたいな素人でもわりと簡単に操作できるもので、サンプリングの音も意外と良かったんだよ。ドラムやピアノ、弦の音まで入っててさ。

──2枚組CDとしてまとめられた音源を今聴くと、ソロ黎明期の代表曲が原石の輝きを放ちながら凝縮した貴重な作品集と言えますね。

マモル:今に至る一番最初のスタートラインだよね。それは僕も改めて聴いて凄く思った。

──しかも当時の住まいの生活音まで収録されているのがユニークですね。「オイラの部屋へおいでよ」や「南新宿のうた」には電車の横切る音や踏切の音が入っていて。

マモル:当時は代々木3丁目の線路沿いのアパートに住んでいて、意図的に入れた曲もあったけど、アコギとかを録ってるとどうしても音が入っちゃうんだよ。「南新宿のうた」はバンドでも録ってみたんだけどなんかイマイチで、家で悶々としてたら朝になっちゃってね。しょうがないから弾き語りでやってみるかと朝方にテレコを回して唄ったら、ちょうど通勤時間だったみたいで電車の音がたまたま入っちゃった。

──朝方に弾き語りをして近所迷惑にはならなかったんですか?

マモル:充分迷惑だったよ(笑)。ただまあ、30年近い昔だから平気だったのかな。線路沿いだったから音がうるさいのは大丈夫だったのかもしれない。たまに怒られもしたけどね。

──当時は機材を買ったから曲を書き始めたのか、曲が溜まってきたから録り始めることにしたのか、どちらだったんでしょう?

マモル:最初の『PRIVATE ONE』(1995年7月発表)を録るときはもうだいぶ曲があって、MAMORU & The DAViESを始めた頃だったかな。最後の『PRIVATE 4』(1998年8月発表)の頃になると、B面に入れた曲とかはカセットに入れるために書いた記憶がある。

──マスタリングの手腕もあると思いますが、CDとして蘇生した音がとてもいいですよね。温かみがあって手作りの良さが如実に感じられるし、カセット特有のヒュルヒュル言うヒスノイズも愛おしく感じられるし。

マモル:音がいいっていうか、ローファイの面白さはあるね。安いコンプレッサーは後で買ったけど、大した機材も揃えてなかったし。歌は普通のカラオケマイクを使ってたから。カセットは入力するとテープコンプがもともとかかるので、音が最初からいい具合に混ざるんだよ。それがデジタルには出せないアナログの良さなのかもね。当時は適当にテープを回して、BOSSのコンプ1個だけでボーカルも何も適当に録って、それで何とかなってたんだから乱暴だよね(笑)。乱暴っていうか、いい加減っていうか。モニタースピーカーもラジカセだったしさ。始めた頃は何の知識もなかったから。

ダサい日本語でもいいから自分なりの言葉で唄うことにした

──だけど凝り性のマモルさんのことですから、宅録の奥義を極めていこうとしたのも時間の問題だったのでは?

マモル:うん。今聴くと2本目の『今週週末来週世紀末』(1995年12月発表)なんてめちゃめちゃ凝ってる。自分が完全に宅録オタクになってるのが分かる。

──最初のカセット発売から2本目のカセット発売まではわずか半年足らずで、その短期間で宅録にのめり込むようになったわけですね。

マモル:いろいろ覚えるといろいろやってみたくなって、たとえばビートルズの録音方法を真似た擬似ステレオとかをやってみたりした。ドラムを分けて録ってみたり、歌をこっち側に分けてみたりといろいろ遊んでたね。当時はちょうどロフトレコードから『想像しよう』(1997年10月発表)を出す頃だったんで、そのレコーディングでも擬似ステレオを試してみたんだけどスタジオだと上手くいかなかった。だけど宅録のカセットだとなぜか上手くいくんだよね。それもカセットだと最初から音が混ざってるからかな? 『想像しよう』はデジタル録音だったからなのか、音がバラバラに聴こえちゃう。

──これらのカセット収録曲が、後にロフトレコードからリリースされる『想像しよう』、『R&R HERO』(1998年11月発表)でどのように変化したのか聴き比べてみるのも面白いですね。

マモル:『PRIVATE 4』を出したのは『R&R HERO』の出る3カ月前で、同じ時期に曲作りしてたしね。ロフトレコードから出る2枚目のアルバムを自分のプライベートカセットシリーズとリンクさせようとしたんだと思う。

──ロフトレコードのスタッフがカセット音源を聴いたことで、のちのリリースにつながったんですか。

マモル:そうだったのかもしれない。ちょっと記憶が曖昧だけど。

──曲の世界観も唄い方も含めて、グレイトリッチーズ以降のマモルさんの歌の原点がカセット音源に集約されていますよね。ロフトレコードから発表した作品よりも先に。

マモル:ちょっと今より暗いけどね。アパートのほの暗い感じが若干あるというか。30代になったばかりっていう年齢的なものもあると思うけど、今よりもひねくれてるし。今でもひねくれてるところはあるけど、自分で自分を分析するとね。

──「ひとりで何ができるかな」のように、自分自身への応援歌みたいな曲はこの時期ならではじゃないですか?

マモル:まあね。グレイトリッチーズが最後はミクスチャーみたいなバンドになってさ、唄ってた僕も頭の中がぐちゃぐちゃになって、解散して一人ぼっちになってから「自分は何をやりたいんだ? 何ができるんだ?」と考えたわけ。その答えが、自分が音楽を始めた頃のシンプルなロックンロールというか、弾き語りでも唄える曲をやろうってことだった。そう思い立った頃にできたのが「ひとりで何ができるかな」みたいな曲で、ダサい日本語でもいいから自分なりの言葉で唄おうと思ってね。言いたいことは大したことじゃなくても、自分だけの言葉で唄おうっていうのをこの時期からずっと大事にしてる。そこには未だにこだわりがあるね。

──どれだけ拙くとも借り物じゃない言葉で唄おうと。

マモル:それはグレイトリッチーズが終わった後の反省としてね。グレリチの最後の辺りは自分の言葉がおざなりになった感じがあったし、ソロを始めるにあたっては自分一人でもできる身の丈に合った音楽をやろうと思った。

──一番最初にできたソロ楽曲はどれなんでしょう?

マモル:「今週週末来週世紀末」はグレイトリッチーズの最後の頃にはもうあった。弾き語りのライブに呼ばれると唄う動機が必要で、それで新曲を作ることが多い。グレリチ時代にソロでライブに呼ばれて、何か曲を作らなきゃと思って作ったのが「今週週末来週世紀末」。その次が「ひとりで何ができるかな」だったのかな。それもライブでやるために作った。自分のテーマ曲みたいなものを弾き語りでやったら面白いと思って。それ以降、「オイラの部屋へおいでよ」や「8月4日B級劇場」みたいな曲がポンポンできるようになった。やっぱり「ひとりで何ができるかな」が大きいね。あれができてから自分の脳がポンと開いたというか、「これだな!」という手応えがあったから。トモ君のおかげもあって、やっと自分なりの方向性を見いだせるようになったっていうかさ。

──マモルさんには絵心やデザインの心得があるし、当時のカセット音源でもジャケットや歌詞カードのイラストをご自身で手がけていて、録音からデザインまですべてハンドメイドで仕上げる姿勢はずっと一貫していますよね。

マモル:そう、何も変わってないんだよね。今も録音からマスタリングまで全部家でやってるし、何一つ変わってないじゃん俺、っていうのに気づいて心の中で笑った。カセットがCDになった、パソコンがあるかないかの違いだけでさ。

録音からミックスまですべてを行なった代々木3丁目のアパート

──何でも自分の手で生み出そうとしたのはメジャーレーベル時代の反動もあったんですか。

マモル:それもあったのかな。たとえば『PRIVATE ONE』のジャケットはカラーコピーなんだよ。6枚分のジャケットをA3の紙に納めて、1枚ずつのジャケットを色鉛筆で塗っていくんだけど、6枚全部を同じように塗るのもイヤじゃない? それで友達のアイディアで全部色違いにしてみた。それを塗り分けてカラーで縮小コピーをして、自分で切り落としてさ。だから『PRIVATE ONE』のジャケットは全部で6種類あって、背景が緑だったり赤だったり違いがある。そんな手作り感満載のカセットでもちゃんとタワーレコードに卸してたからね。ライブで売るテープは家でダビングしたのもあったけど、基本的にちゃんと業者へ出して流通させたんだよ。当時のタワーレコードにはカセットテープのコーナーもあったし、まだインディーズも元気があって今より自由な感じだった。ライブで行った新潟のタワーレコードだったかな、店員さんが僕のカセット音源のポップを作ってコーナーで飾ってくれたのは嬉しかった。

──家でカセットをダビングするのはハンドメイドの極みですが、それも限界がありますよね?

マモル:2本目のカセットをライブで発売するってときも家でダビングしたんだけど、今みたいな何倍速とかないし、リアルタイムでコピーするしかなかった。確か1本につき30分かかったのかな。結局、ライブへ行くギリギリまで作業をすることになって、これはレコ発に間に合わないってことで知り合いの若い子を呼んで、ライブへ行くまで僕と交替でダビングすることになったんだよ。僕が寝てる間にそいつがダビングして、そいつが寝てる間に僕がダビングして(笑)。それで何とか50本くらいダビングできたのは覚えてる。

──結局、このカセットシリーズは累計でどれくらい売れたんですか。

マモル:最初の2本は100本、200本くらい行ったかな? もうあまり記憶が定かじゃないけど。

──こうして2枚組CDにまとまったものを聴き返して、今の自分ならこんな歌は唄わないかなというのはありますか。

マモル:いっぱいあるよ。その頃の精神状態っていうのが今とはまた違うしさ。

──たとえばドラムとピアノをバックにつぶやくような歌を聴かせる「何かいいことないかな」は、今のマモルさんのレパートリーでは珍しいタイプの曲ですよね。音の録り方も含めて。

マモル:あれは家でわざとボソボソ唄ってて、ちょっと実験的なことをやりたかった。ジョン・レノンの「Mother」みたいなことをやろうとして、当時はDAViESのメンバーだった(斉藤)エンジン君にピアノを弾いてもらった。まあその曲に限らず、あの頃は何でも実験だったね。

──最初の2本は純然たる宅録だったのが、3本目の『南新宿 R&R Band』(1996年8月発表)からはバンドで録音するという試みも大胆でしたね。

マモル:だんだん欲が出てくるんだね。2本目までで自分なりの宅録の仕方が完結して、8トラの限界を超える所まで行ったんで、3本目はバンドで録ってみようと思った。それも実験の一環とも言えるのかもしれない。津久井のスタジオで録ったけど、機材は基本的に代々木3丁目のアパートと同じ。適当にマイクを立てて何も考えずに録った。知識がないって逆に凄いんだよ。8トラだからどこかでピンポン(すでに録音された複数のトラックを一つのトラックにまとめて録音し、新たに空きトラックを作ること)しないといけないんだけど、今みたいに便利じゃないからそこでピンポンするのは一度きりの勝負だからね。それでいろんな音が混ざっちゃうから。

──その行為が独自の緊張感を生むことにもなりますね。

マモル:うん。今聴くとシンバルがデカイなとか感じるけど、知識がないなりによくやったなと思う。

──バンドのスタジオ録音の次はバンドのライブ録音をしてみようと試みたのが『PRIVATE 4』でしたね。

マモル:『R&R HERO』を出すのがすでに決まっていたからロフトのスタッフがいろいろ動いてくれてね。「手ブラで行こう」と「テレビマン〜すばらしい毎日〜」は新宿ロフトの昼間を借りて録音したんだよ。ロフトのエンジニアの人たちが来てくれて、ADAT(アレシス社のデジタルマルチトラックレコーダー)に「せーの!」で音をぶち込んで。シェルターで録った「ボクのうた」も同じ感じ。それらをまとめてミックスダウンしたのはなぜかラママだったんだけど。今思うと贅沢だよね、ロフトとラママが使い放題だなんて(笑)。ロフトと言えばね、『想像しよう』の録音も代々木の“Stepway”っていう古いスタジオだったんだよ。当時住んでたアパートから歩いて5分くらいの所でさ。何から何まで代々木で事が済んでた時代なんだよね。

──「新宿で飲みすぎて 歩いて帰れる距離なのさ」という歌詞(「オイラの部屋へおいでよ」)の通りだったんですね。

マモル:そうそう。レコーディングも僕だけ歩きだったし、代々木時代はとにかく生活の環境が良かった。僕が住んでたアパートは当時同じ事務所だったサミー前田君(現ボルテイジ・レコード主宰)がもともと住んでいて、彼に「僕は引っ越すけどいい部屋があるよ」と言われて遊びに行ったら、台所に風呂桶がズンと置いてあってさ。

──それも「オイラの部屋へおいでよ」の歌詞の通りですね。

マモル:そう、そこからもう面白くて。そのアパートは当時所属してた事務所の社長のお父さんの持ち物で、最初に住んでた社長の妹さんが台所を勝手に風呂場みたいにしちゃったんだよ(笑)。その部屋だけ家族の持ち物だから自分で改造しちゃったみたいでさ。台所で湯船に浸かれて窓から電車が走るのが見えて、ちょっとした露天風呂だから(笑)。その部屋の3代目住民が僕で、最初に部屋へ遊びに行ったときからめちゃめちゃ気に入ってね。「何これ!?」みたいな。ちなみにそのアパート自体は潰れないでまだ残ってるみたいだよ。そこの部屋の風呂桶は僕が住んでた頃に給湯器が壊れて使えなくなったけどね(笑)。

ローファイなアナログ録音独自の思いきりの良さ

──今回はDISC-1とDISC-2にそれぞれボーナストラックが収録されていますが、DISC-1のボーナストラックの「ふぬけ」は『MAMO'S BLUES Vol.2』(2001年8月発表)に収録されていたものと同じテイクですか。

マモル:うん、同じ。『R&R HERO』に入れた曲のデモ・バージョンだね。

──DISC-2のボーナストラックの「スキだらけで行こう」は、4本のカセットを出した後の1999年4月にレコーディングされたものなんですね。

マモル:当時のDAViESのメンバーと東新宿のスタジオで録ったんだけど、何のために録ったのかはよく覚えてない。ミックスは代々木3丁目のアパートでやったんだけど。あと今回、マスターがCD-Rで残ってた「ロックンローラー」だけミックスし直してみた。1トラックずつパソコンに取り込んでリミックスしてね。他の曲もマスターが残ってたら同じようにやりたかったんだけど、見当たらなくてさ。それと「今週週末来週世紀末」と「荒川へ行こう」は『MAMO'S BLUES』に入れた2001年のリミックス・バージョンだね。カセット音源の全部じゃないけど何曲かチョイスして、「オイラの部屋へおいでよ」や「君はぼくのどこが好きなの」の新録を入れたのが『MAMO'S BLUES』の2枚なんだけど。でも『MAMO'S BLUES』はカセットで出した曲順もバラバラだったし、なんか流れが悪いね。デジタル録音を始めた頃の実験的要素の強い作品だったし、曲順も適当にぶち込んだだけだったから。今回のように『PRIVATE ONE』から『PRIVATE 4』まで順番に並べて聴いたほうが作品としても面白いよ。ちょっと暗いけどね、さっきも言ったけど(笑)。

──やはりそこが気になりますか?(笑)

マモル:まだ若くて一人暮らしだったしね。ずいぶんひねくれた小僧だなと今は思うよ。面白いことを唄ってるとは思うけどね。

──凄く面白いし、「お金持ち」の歌詞とか最高じゃないですか。だって「ボクはお金持ち/あいつ世帯持ち/あの娘はやきもち」ですよ?(笑)

マモル:くだらないよね(笑)。僕が今聴いて面白いな、今は書けないなと思ったのは、ロフトで録った「テレビマン〜すばらしい毎日〜」だね。ヘンな曲だけど面白い。曲調も変わってるし、ヘンなセリフも入っててさ。

──ウクレレを取り入れた「野球小僧」もこの弾き語り時代ならではだし、グレイトリッチーズではできなかった表現ですよね。

マモル:「野球小僧」も宅録の実験だったね。家でリラックスして録るからなのか、宅録でしかできない何かがやっぱりあるんだよ。カセットに入ってた「野球小僧」は『想像しよう』のためのデモだったんだけど、ドラムとかはMTRを使ってクリックを入れながら打つわけ。でもそれだけじゃつまらないってことで、打ち込んだドラムをラジカセから鳴らしてマイクで録ったんだよね。今聴くとめちゃくちゃだけど、何でもいいからやっちゃえ! っていう感じだった。全部自分の部屋で完結することで、凄く勉強になったよ。今はデジタル録音のおかげで失敗をやり直せる良さがあるし、全体のバランスを取るのも大事なんだろうけど、ローファイなアナログ録音みたいに一か八かで思いきってやるっていいよね。

──根拠なき自信が為せる業、それゆえの勢いや思いきりの良さ、潔さの輝きってありますしね。

マモル:このカセットがメジャーから出るわけじゃないっていう気楽さもあったと思う。ライブでちょっと売るくらいの音源だからっていう気安さが結果的に面白いものを生んだんじゃないかな。これを公式に発売するってことだったらこうはならなかったと思うよ。もっと気を張ってちゃんとしたものを作ろうと空回りしてたかもしれない。

──今また8トラックカセットMTRを使って宅録するのも悪くないと思いますか。

マモル:うん。ヤフオクで1万円くらいで売ってるから買っちゃおうかなと思って。当時は10万円くらいしたんだよ? 400ccのバイクを売ってお金を作ってさ。でも確実に言えるのは、あの時代のカセットの実験がなければ今の僕はないからね。そしてその実験は今もずっと続いてるというか、さっきも言ったけどやってることが今とちっとも変わらないのが自分でも笑える。録音して絵を描いてデザインして、何から何まで全部自分で作業してさ。絵のタッチもあまり変わってないしね(笑)。

ライブでしかできない表現力をもっと上げていきたい

──その辺りは2枚組CDの内ジャケットを確認していただいて(笑)。マモルさんの表現は手作りが基本で、その朴訥として温かみのある音楽もアートワークも30年近く一切のブレがないことが今回の『PRIVATE TAPES 1995-1998』で実証されたとも言えますね。

マモル:まあ、何でも自分でやるのが面白いんだよ。自分でものを作るのがただ楽しい。そういうのが単純に好きなんだろうね。

──近況としては、コロナ禍以前には及ばずともライブの本数が着実に増えてきたところですね。

マモル:バンドはまだちょっと様子を見つつだけど、ソロの弾き語りツアーはやれてきてるかな。今回の『PRIVATE TAPES 1995-1998』を持ってツアーに行けば、次は何とか乗り切れそうだなって感じだね。こないだくらいからカセット時代の曲もライブでやり出してるけど、なかなか面白い。ただ、「マズイかうまいか食って判断」をやろうと思ったら難しくてやれなかった。3拍子が4拍子になる面白い曲なんだけど、家で練習してこないとできないと思った。マズイかうまいかを食って判断するっていう曲のテーマも自分で笑っちゃったけど(笑)。

──食べ物をテーマにした曲で言えば「ひじき」も素晴らしいですね。「ひじきはすごいぜ/冷たくなっても うまいんだ」「ステーキなんて 冷めたらマズくて 食えねえよ」なんて誰でも書ける歌詞じゃありませんし(笑)。

マモル:今思うと、ホントにやりたい放題だね(笑)。まあ、今だって同じことはやれるけどさ。思ったことを唄えばいいだけなんだから。

──今も新曲はコンスタントに作り続けているんですか。

マモル:自分のライフワークだからもちろん作ってるよ。ただ今は絵を描くほうが面白くてね。コロナの自粛期間中にパソコンで絵を描くスキルを身につけてさ。

──まさに「絵をかいて暮らしてるよ毎日」ですね。

マモル:そうなんだよ。WEB用にライブのフライヤーを作るのも、今までは写真を貼り付けてたけど自分で描いた絵を使うようになってね。そういう絵も描いていけば作品として残るから。

──それがいつかまとまった作品として発表されるのが楽しみです。今年は「いかすぜライブハウス」以来の新曲も期待して良さそうですか。

マモル:新曲とは言えないかもしれないけど、今はカバー・アルバムの制作を始めてる。半分は外国の曲を自分なりに日本語に直して唄ってみたり、あまり知られてない地方のミュージシャンのカバーを入れてみたり、もう十数曲デモができてるよ。権利の関係もあるので、もしかしたら一般流通はできないかもしれないけどね。まあどうなるか分からないけど。実は今回のカセット音源復刻も、1曲だけCDにできなかったのがあるんだよ。それも外国曲を僕が日本語に直して唄ったカバーで、当時ロフトで録ったライブ音源でさ。そのテイクがめちゃくちゃ良かったんだけど、それも公に出すとなるといろんな問題があって収録を見送ることにした。

──アーティストの純然たる表現が法的な権利のため世に出せないというのも解せない話ですけどね。

マモル:まあ、中にはリスペクトの足りないふざけたカバーもあるから権利者のほうでもいろいろ制限があるんだろうね。僕の場合は日本語の訳詞なんて大層なものじゃなく、ただの替え歌なんだけど。(忌野)清志郎さんが『COVERS』でやってたみたいなさ。でもたとえば清志郎さんが訳詞した「Daydream Believer」を唄うのは申請すれば許されるけど、新たに「Daydream Believer」の訳詞を作るのは今はダメらしいんだよね。こないだDECKRECのネモやん(ネモト・ド・ショボーレ)とも話したんだけど、替え歌って日本の文化だったはずなのにね。でも今はちゃんとリスペクトしてカバーする人といい加減なカバーをする人の線引きも難しいし、そこで闘っても意味がないからうまいことやるしかないよね。だってしょうがないんだよ、別に悪気があるわけじゃないけど面白い日本語詞が頭の中に浮かんできちゃうし、浮かんできちゃった以上はその通りに唄いたいんだから。そういうのは自分の中で染みついた感覚だしね。

──月並みですが、2022年はどんな年にしたいですか。

マモル:変わらずロックンロールをやり続けたいね。抱負とかは特に何も考えてないな。コロナ禍の鬱憤も意外と自分では解消できたしさ。休んでる間に「いかすぜライブハウス」のMVとして自分でアニメーションも作れたし、絵を描くスキルも上がったし、休んで家にいたぶんだけ普段できない創作活動もできたから。ウクレレも練習できたしね。ライブをちょっとずつ再開し始めた今思うのは、ライブでしかできない表現をもっと大事にしたいし、その表現力をもっともっと上げていきたいってこと。それはソロでもバンドでもね。やっぱり音楽って素晴らしいし、素晴らしいことをこれだけ長くやらせてもらってる以上、その恩返しをしたいって言うとクサいけどさ、自分なりの音楽という表現でお返しができたらいいなと思うよ。歌を唄うなり絵を描くなり、僕には何かを表現することしかできないからね。

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