『カムカムエヴリバディ』で大注目、サッチモことルイ・アームストロングを知る5つの事実

Photo Credit_ Courtesy of the Louis Armstrong House Museum

ジャズの偉大なるアーティストであり、アメリカ・ポピュラー音楽史上屈指のエンターテイナーとして、音楽を通じて世界中に愛と平和を伝えたルイ・アームストロング。太陽のように明るくて包容力のある彼の歌声とトランペットは、いつの時代も人々のハートを優しく包んでくれている。

そして、現在放送中のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』では、ルイ・アームストロングの奏でる「On the Sunny Side of the Street」が重要な役割を果たしている。

生誕120周年を経た現在、あらためて注目を集めるサッチモことルイ・アームストロング。その魅力がわかる5つの事実を紹介する。音楽ライター/ジャーナリストの原田和典さんによる寄稿です。

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三世代の女性をフィーチャーした家族100年の物語を、かなりのアップ・テンポで繰り広げるNHKの連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』。ジャズ・ファンにも見逃せない展開が続き、夜型の筆者はすっかり早起きが楽しみになった。

まだいくらか平和だったであろう昭和10年代前半、ひょんなことから知り合った和菓子屋の娘・安子と繊維会社の跡取り息子・稔は洋楽レコードをかける喫茶店「ディッパーマウス・ブルース」で、ルイ・アームストロングが演唱する〈オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート〉(以下サニー・サイドと略)を聴いて大感激、一気に距離を近づける。

やがて日米戦争が始まり、喫茶店のガラスは“敵国の音楽を流すな”と割られて粉々に。夫婦になった二人を待っていたのは稔の徴兵だった。ひとり残された安子は無事に出産、稔は前もって子供の名前を考えて書き残していた。どちらの性別にもふさわしい名前を――その女児は「るい」と名付けられた。だが大好きなアメリカの音楽家に因んだネーミングであるとは、口が裂けても言えるわけがない。

敗戦を迎え、この前まで敵だった国の兵隊がやってきて占領を始めた。稔の戦死が知らされる。安子はるいを連れて、稔の実家を出た。移動中の列車の中で安子が口ずさんだのは〈サニー・サイド〉。一般に「明るい表通りで」という邦題で知られるが、劇中で稔は“日なたの道”と訳した。物語の背骨というべき一曲、それが『カムカムエヴリバディ』における〈サニー・サイド〉である。

この曲は、伝説的興行師ルー・レスリーがプロデュースしたショウ『インターナショナル・レビュー』(1930年2月、ニューヨークで開演)から生まれた。作詞・作曲は、売れっ子ソングライター・チームのジミー・マクヒューとドロシー・フィールズ。その前年にあたる1929年10月24日、ニューヨーク取引証券所の株価が大暴落し、いわゆる世界恐慌が始まった。

“悩みはドアにおいて、さあ、表通りに飛び出そう。表通りを歩けばすべてうまくいく、たとえ一文なしでも気分は大金持ちさ”という歌詞に、とりあえず気分的には救われた人々も少なくないはずだ。この曲を最初のヒットに導いたと伝えられるのは、若きベニー・グッドマンにも影響を与えたクラリネット奏者兼歌手のテッド・ルイス。ヴァイオリンを生かした伴奏に乗せて、歌うというよりは語るように詞を綴った。

ルイが〈サニー・サイド〉を初めてレコーディングしたのは、筆者の知る限り、フランス滞在中の1934年10月(11月7日説もあり)。約6分間の、当時としてはかなり長尺のパフォーマンスで、オーケストラをバックに、前半は歌唱、後半はトランペット演奏に魅力を発揮する。

ルイは1937年11月にこの曲をより簡潔な形で再録、第二次大戦後に結成された6人編成のバンド、ルイ・アームストロング・オールスターズでも頻繁にとりあげた(『Louis Armstrong At Town Hall』『Live At Symphony Hall』など)。

さらに1956年には、三たびオーケストラの伴奏で、決定版というべきヴァージョンを録音。こちらは2021年8月に発売された『ワンダフル・ワールド~生誕120周年記念ベスト』にしっかり収められている。円熟した演唱、ゴージャスな伴奏、良好な音質の三拍子が揃ったパフォーマンスだ。

その『ワンダフル・ワールド』の解説文との多少の重複を承知の上で、改めてルイ・アームストロングの影響力、先見性、破天荒さについて記しておきたい。

1. アドリブやスキャットを定着させた

ジャズ・バンドのレコーディングは1917年ごろから始まったが、それらを(すべてではないにしろ)聴くと、あくまでもアンサンブルを重視しながら、そこに短いソロ・パートを挟む形で進行していることが確認できる。が、ルイは1920年代半ばから自らの即興演奏を核にしたバンド・スタイルに取り組み、“アドリブ中心音楽としてのジャズ”を提示した。また、意味を持たない言葉でリズミカルに歌う、いわゆる“スキャット唱法”を広めた。

2. 他の楽器奏者にも絶大な影響を与えた

ルイの吹奏に多くの演奏家が感化された。その中には“ジャズ・サックスの父”コールマン・ホーキンスや“ジャズ・ピアノの父”アール・ハインズがいる。とはいえ現在、熟練ジャズ・ファンの間でも彼らの名前が話題にのぼることは少ないかもしれない。では、現代のジャズやロックやヒップホップ等にも影響を及ぼすマイルス・デイヴィスへのそれはどうであろうか?

話は1920年代後半にさかのぼる。少女時代のビリー・ホリデイはルイのレコードを熱心に聴き、やがて歌手デビューを果たした。そのビリーとの交流で自身の演奏に磨きをかけたのがテナー・サックス奏者のレスター・ヤングだ。そんなレスターのプレイを、少年の頃のチャーリー・パーカーは夢中になって聴き、自らのアルト・サックス演奏に生かすべく猛練習を重ねた。

そして10代の時にパーカーから見出されたマイルスは、数年間、ステージ上で彼の真横に立って“即興演奏の魔力”を目の当たりにした。そう、やっぱり源はルイ・アームストロングだ。マイルスの部屋にはただ1枚、ルイとの2ショット写真(1970年、ルイの誕生パーティー兼レコーディング・セッションで撮影されたもの)が長く飾られていたとも聞く。

3. 驚くべき多彩なレパートリー

“神の音楽”(=ゴスペル、スピリチュアル等。酒場で演唱されない音楽)と“世俗音楽”(=ジャズ、ブルース等。酒場で演唱され、ダンスも伴う音楽)の間を行き交うことは長いあいだ一種の禁忌であった。このバリアを破ったひとりもルイだ。

1938年に録音したゴスペル・ソング「When the Saints Go Marching In(聖者の行進)」は、以降ジャズの定番として現在に至る。ほかにもハワイアン、ディズニー・ソング、キューバ音楽、タンゴ、カントリー&ウエスタン、アフリカン・ソング、シャンソン等を独自に料理、ジョン・レノンの「Give Peace a Chance(平和を我等に)」を取り上げたこともある。

4. 世界を魅了したお祭り男

またの名を“アンバサダー”(大使)。“ソ連と中国以外のすべてで演奏した”、“争っていた軍隊がルイのライヴを聴きたいがために休戦協定を結んだ”とも伝えられる。1948年には史上初のジャズ祭と目されるニース・ジャズ・フェスティヴァル(フランス)に登場、1954年に始まったアメリカ最初の本格的野外ジャズ祭、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルの常連でもあった。元祖フェス男と言っていいだろう。

5. 曲がったことは許さない! 社会へのまなざし

作詞作曲したファッツ・ウォーラー自身も録音を残さなかった「Black And Blue」(黒い肌を持った者の心情を歌う)を1930年代からレパートリーに入れ、1957年にアーカンソー州の高校で起こった黒人生徒入学阻止事件に憤慨し、“黒人にひどい扱いをする、こんな国の文化使節として、海外に行けるものか”と公演をキャンセルしたこともある。

晩年の名唱「What A Wonderful World(この素晴らしき世界)」については、こう述べてもいる。

“若い連中が私に尋ねるんだ。「この世界のどこが素晴らしいのか。あちこちで戦争や飢餓が起こり、環境が破壊されているじゃないか」ってね。でもそれは世界のせいじゃないんだ。私たちが世の中を悪くしてしまったんだよ。世界を良くするための秘訣、それは愛なんだ。お互いにもっと愛し合えば、多くの問題が解決するんだよ”

なんと大きく、頼もしい存在なのか。時がいかに流れようとも、ルイは温かな音楽と人懐っこい笑顔で、ジャズのゆく道を明るく照らしてくれることだろう。

Written By 原田和典

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ルイ・アームストロング『ワンダフル・ワールド~生誕120周年記念ベスト』
2021年8月4日発売

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