<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(2) 「官」から「民」へ通達された流言蜚語

震災当時の浅草寺仁王門前。中央に積み上げられているのは自警団が「朝鮮人狩り」に使用した金棒や竹槍。(『関東大震災写真帖』日本聯合通信社・1923年)

作家・江馬修はルポルタージュ小説『羊の怒る時』に自身の惑乱を綴った。それは「不逞鮮人」の襲撃を否定できない心理の吐露であった。かたや物理学者で随筆家の寺田寅彦は流言をデマと断定する。情報が錯綜する混乱の下、決定的だったのは「官」から「民」へと通達された流言蜚語の肯定だった。(劉永昇

◆現実となった「新しい恐ろしい災厄」

1916(大正5)年、『受難者』を刊行した頃の江馬修。(『飛騨人物事典』より)

江馬修(1889~1975、えましゅう)のルポルタージュ小説『羊の怒る時』は、震災の翌年1924年12月から台湾の新聞『台湾日日新報』に連載され、1925年10月に単行本が刊行された。関東大震災を題材にした文学作品として最も早い時期に出版されたものと言えるだろう。

小説『受難者』がベストセラーとなり人道主義作家として注目されていた江馬修は、次第に社会問題への関心を深めプロレタリア文学に接近する。被災時は長編小説『極光』の執筆中で、作中には「日本人はアジア人共通の敵であるヨーロッパ人と一緒になって、東洋で共食いをしている。支那・朝鮮・印度を援(たす)け、アジア人の復活のために尽くすべきだ」と植民地主義の批判を書いている。

そんな江馬の予感した「新しい恐ろしい災厄」は震災後すぐに現実のものとなった。地震や火災によるおびただしい死者もさることながら、一帯に流布したデマによる「朝鮮人狩り」が始まったのである。

◆震災第二日目のこと

『羊の怒る時』は、江馬修の体験を綴ったものであり、作家自身が流言蜚語によって疑心暗鬼に囚われる様子が克明に記されている。

震災第二日目のことである。

「今そこでフト耳に挟んできたんだが、何でもこの混雑に乗じて×××(伏字=朝鮮人)があちこちへ放火して歩いていると言うぜ」

隣家の軍人にこう伝えられた江馬は、「本当でしょうか」と目をみはる。

「日頃日本の国家に対して怨恨を含んでいるきゃつらにとっては、言わば絶好の機会というものだ」と続けられる言葉に、朝鮮人の友人があり彼らの考えや態度に「浅くない同情をもっていた」江馬は、「有り得る事だ」と考えないわけにいかなかった。

そこへもっと具体的な知らせがもたらされる。

「×××が一揆を起こして、市内の到る処で略奪をやったり凌辱を」しており、「だから市内では、×××を見たら片っぱしから殺しても差支えないという布告が出た」と言うのである。

江馬はこうした流言を強く疑いながらも、半ば信じようとする心の惑乱を感じている。

『羊の怒る時』(復刻版、影書房・1989年)

◆いまだ実態調査が行われていない

「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「女性を襲い暴行した」……。

こうした流言蜚語を信じた被災者自らが、同じ被災者である朝鮮人を殺戮した。民間人だけではない。軍も、警察も、この虐殺に加担したことがわかっている。

関東大震災は約10万5000人の命を奪ったとされるが、その数に虐殺された人々全てが含まれているとは言いがたい。なぜなら当時政府は虐殺行為を隠蔽、矮小化し、現在に至るまで公的な実態調査がされていないからだ。

一方で、さまざまな証言の発掘が市民の手で進められ、民間の研究によって事件の全貌が徐々に明らかにされてきた。そうした努力の成果を踏まえなければ、この原稿などまるで書き進められないことを、あらかじめ申し上げておきたい。

◆「官」から「民」へ伝達された流言蜚語

震災下の首都で、流言蜚語はいつ誰が流したのか。

「朝鮮人が襲ってくる」という流言の発生時期について、物理学者で随筆家の寺田寅彦は日記にこう記している。

帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。(『震災日記』「九月二日」)

寺田は「こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか」と、噂は信じるに足りないとしている。

また劇作家の木下順二は、自ら目撃した出来事を後にこう回想する。

顔を血で真赤に染めて後手に縛られた一人の男が、林檎箱の上に引き据えるように腰かけさせられていた。(中略)その男が朝鮮人であることは、少年の私にも自然に分かっていた。爆裂弾を投げつけたとか井戸に毒を入れて回っているとかいう“不逞鮮人”の噂は、もう9月2日には私も聞かされていたのではないかと思う。(『本郷』)

寺田寅彦によれば、流言は早くも震災当日(1日)の夜に警察が広めていたことになる。そして翌2日には当時9歳の少年だった木下順二がそれを聞き知っている。流言の発生源を特定するのは難しいが、災害の最も早い時期に警察官から市民へ「朝鮮人に警戒せよ」と誤った通告をしていることは決定的だったろう。

◆自警団代表の告白

実際に自警団代表のこんな報告がある。

「九月一日夕方、曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ」と二度まで通知に来た」(『報知新聞』1923年10月28日)

さらに翌2日なると警視庁の自動車がビラをまいて回った。この自警団代表の男は「即ち(警察が)鮮人に対し自警団その他が暴行を行うべき原因を作ったのだ」と訴えている(山田昭二『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』より)。

この記事が掲載された時期、朝鮮人虐殺の責任は自警団などの民間集団に押し付けられるようになった。自警団の男はそれは違うと不平を鳴らしているのだ。(敬称略 続く 3

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劉 永昇(りゅう・えいしょう)
「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。

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