森喜朗が石川県政では一度も主流派でなかった不思議~保守系三候補が退路を断って戦う知事選に全国的注目(歴史家・評論家 八幡和郎)

全国最多選知事と元首相が影響力を競う

  石川県知事選挙は、2月24日告示、3月13日投開票だが、現職で全国の知事で最多の7期目を務める谷本正憲知事(76)は引退を表明しており、自民党の馳浩・元文部科学相(60)、山田修路・元参院議員(67)、山野之義・金沢市長(59)による激しい選挙戦が予想されている。

 この石川県では、昭和22年の知事公選の開始から、谷本知事はまだ4人目である。といっても、最初の2人の知事は、2期ずつだったのだが、3人目の中西陽一知事が9期(現職のまま死去)、そして谷本知事が7期で2人併せて、59年間で2人で知事を務めているのである。

 石川県を代表する政治家と云えば森喜朗元首相だ。首相としても東京五輪組織委員会の会長としても、最後は石もて追われた感があるが、プロの評価は高い。

 私は、坂本龍馬にいちばん似た政治家は誰かと聞かれると「森喜朗だ」と答えている。龍馬ファンはイメージが違うとがっかりするが、地方の金持ちの息子で、巨体を揺らす体育会系、気配りの名人、相手の懐に飛び込む名人、違う意見の人の仲立ちが上手、宴会での座持ちや子ども相手のあしらいに長けているなど共通点は多い。

 あの小泉純一郎さえ派閥の長としてそこそこコントロールした。郵政民営化問題で談判に官邸に乗り込んで、「ひからびたチーズしか出なかった」と一芝居打って小泉首相の強気を上手にバックアップした。

 外交でも、ロシアのプーチン大統領との友情は有名で、民主党政権の野田首相すら領土問題の特使として派遣したいと言ったことがあるほどだ。

 そういう森であれば、地元の石川県では絶対的な権力者なのだろうと思うのが普通だ。ところが、不思議なことに、地元の石川県では、県政で主流派になったことがない。中選挙区時代の石川一区でライバルだった奥田敬和(郵政相)との「森奥戦争」は有名だが、つねに知事は彼らのサイドだ。

 そして、今回の石川県知事選挙も、そこがポイントなのである。

2人の知事で59年間も知事の座を独占

  石川県の初代公選知事は、地元出身で東京大学から農林省入りし、駐タイ国大使館参事官や食品局長をつとめ、官選の滋賀県知事だった柴野和喜夫(1947~55)だった。

 3選目を狙った柴野だったが、内灘射爆場への反対闘争などもあったなか、田谷充実(1955~63)に4万5000票差で敗北した。田谷は京都大学法学部卒。石川県農協中央会長などをつとめた。このころ、農業団体に支持された候補が、官僚知事を破るということが比較的多かったのである。だが、田谷は病気で3選目への立候補は出来ず、離任後すぐに病死した。

  後任を選ぶ知事選挙で、最有力候補の一人が、森喜朗の父で県政の実力者だった森茂喜だった。森の地元である根上町(現能美市)は、大リーグの松井秀喜選手の故郷として知られるが、森の祖父である喜平は20年、父の茂喜は九期にわたって村長・町長を務めた。町民の話は必ず正座して聞いた人格者でラグビーの指導者として知られたが、かつて柴野知事の副知事で金沢市長もつとめた土井登と、田谷知事のもとで副知事だった中西陽一(1963~94)との三つ巴の激しい争いのなかで、中西から副知事とすることを仄めかされて辞退したのだが、この約束が守られることはなかった。

 中西陽一は京都府出身。父親は京都府庁の課長で、息子は一中、三高、京都大学法学部を卒業した。復員後、内務省入りし、石川県総務部長、自治庁会計課長を経て田谷知事のもとで副知事となった。その1年半後に田谷の後任を争う知事選挙に立候補し、土井を3万票弱の差でかわして当選した。

 一方、森はその後も根上町長を1989年までつとめたが、1969年の総選挙に長男の喜朗が自民党公認をもらえず、無所属で立候補した。このとき、番狂わせでの当選の値動力になったのが、岸信介元首相の応援で、この縁で森は清和会に属することになった。

 この総選挙でやはり初当選したのが、田中派で七奉行の一人と言われることになる奥田敬和であって、「森奥戦争」は全国的にももっとも激しい政争といわれることになる。

  中西は、京都出身らしくお公家さん的なしたたかさで政敵を押さえ込んだ中西だが、経済開発では、国の政策に乗っかるより、有能な人材を商工労働部に配置し中小企業政策の現場で鍛えたり、企業立地では直接助成金を与えて結果を出した。

 また、「リスがすめる緑豊かな街が理想」といって煉瓦づくりの旧軍兵器庫を美しい県立博物館にした。オーケストラ・アンサンブル金沢も成功例といわれる。

  その中西も8選目には、15年に亘って副知事をつとめた杉山栄太郎の反乱にあった。杉山には森喜朗派の県議のほか社公民各党や連合がついた。これに対して、中西には奥田敬和らがついた。

 最初は杉山の多選・高齢批判が支持を得たかに見えたが、73歳に対する67歳ではあまり説得力がなかった。また、杉山自身やそれについた県議の強引さが反感を買った。結局は約1万票差で中西が逃げきった。

 結局、8回にわたって選出され、31年もの長い年月在任し、現職のまま大往生した。最後には、急速に衰えが進んで職員に両側から支えられながら公の場に現れたといったこともあったりしたが、それでも、職務を続けた。

  中西の死を受けての選挙では、自民党は森喜朗を中心に元農水次官で参議院議員だった石川弘の擁立に動いた。これに新生党に移っていた奥田敬和もはじめは同調の方向だったが、地元や党本部から主戦論が高まり、副知事だった谷本正憲(1994~)に白羽の矢が立った。

 石川はこのとき65歳。31年ぶりの新知事誕生に期待する県民の感覚からいっても高齢過ぎた。谷本の四八歳はほどほどの年齢で、「若さと実行力」をアピールして無党派層や浮動票の取り込みを狙った。細川首相の応援なども効果的だった。石川は谷本が兵庫県出身であることを衝き、「石川県生まれの知事を」と訴えたが、約1万票差で谷本に軍配が上がった。

 谷本は兵庫県の西脇近郊で織物と新聞販売をする家庭に生まれた。京都大学法学部から自治省入りし、茨城県総務部長などをつとめた。性格は緻密でまじめと定評があり、自治省出身者からも安心して見てられる知事と評価された。

  県庁の移転や、北陸新幹線の金沢延伸、石川県内で2番目の空港となる能登空港の開港などへの評価も高く、2期目以降の選挙はすべて無風選挙だった。

 ただ、4年前の知事選挙では、自民党内の一部から参議院議員の山田修路を推す声もあった。山田は加賀市出身で、農水官僚で水産庁長官や農林水産審議官などを歴任し、2013年の参議院選挙で初当選していた。

金沢市長も参戦して漁夫の利もあるか

 今回の知事選挙では、谷本の去就がはっきりしなかった昨年の7月に、現職の衆議院議員である馳浩元文部大臣が記者会見を開いて秋の衆議院選挙には立候補せずに知事選挙に立候補することを声明した。

 この背景には、森喜朗が今度こそ自分の息のかかった知事を実現したいと動いていると見られた。

  そして、衆議院選挙が終わったあとの11月に谷本は立候補しないことを明らかにしたが、馳の立候補が引き金になったことは間違いない。

  さらに、谷本が退任を表明したのち、漁協が山田に石川県知事選挙への立候補を要請する書面を提出したのを皮切りに、文化団体などからも立候補を求める声が出た。ただ、党本部は現職参議院議員の立候補には不快感を隠さなかっただのが、地元では馳が谷本を引退に追い込んだととる県議も多かった。

 そして、12月24日に山田は、参議院議員を辞職して石川県知事選挙への立候補を明確なものとし、1月8日、自民党県連は馳と山田の双方を支持するとし、自主投票とすることを決め、公明党も同調するようだ。立憲民主党は、勝ち馬に乗って県政における一定の発言権を覚悟したいらしい。

  さらに、金沢市の山野之義市長も13日に石川県知事選挙に立候補する意向を表明した。 山野氏は民間企業勤務や金沢市議会議員を経て、平成22年に金沢市長選挙で初当選し、現在3期目だが、かねてより多選に反対してきた。

 情勢は混沌としている。馳は森元首相の援護を受け、地元紙の北國新聞も現在は森と良い関係にあり好意的だし、党中央も森への配慮と参議院を任期途中で辞任した山田に好意を持っていないが、県会議員や県庁内部では山田の行政手腕への期待が大きいし、谷本知事も山田のほうに好意的であるといわれる。

 ちなみに、先年の富山県知事選挙では、谷本が現職の石井隆一知事の、森が新人の新田八郎の応援に入って今回の選挙の前哨戦を繰り広げたが、このときは新田が勝った。

 しかし、実のところ、これまでの実績として、馳も山田もそれほど選挙に強いタイプでない。

 その意味では、山野のほうが選挙上手だし、金沢市という絶対的な地盤をもっているだけに、年齢も若いので漁夫の利を得る可能性も取り沙汰されている。旧制一中にあたる泉丘高校の同窓会である一泉会が、長い他府県出身官僚知事の時代から、今度こそと燃えるかどうかが焦点という人もいる。

 いずれにせよ、現職の衆参両議院議員と県庁所在地の市長が、退路を断って争うこの選挙は、近年、まれに見る保守系三候補の激しい争いとなり、立憲民主や維新がどう動くかも含めて全国的な注目を集めそうである。

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