サザン「チャコの海岸物語」40周年!偉大なる “歌謡曲” に感謝をこめた桑田佳祐 加山雄三やワイルドワンズ “湘南サウンド” に連なるサザンの系譜

1981年のサザンオールスターズ、アルバムは売れていたけれど…

デビュー4年目、1981年のサザンオールスターズは、全てにおいて順風満帆とはいえなかった。1979年にサードシングル「いとしのエリー」で大きな評価を得た後、「思い過ごしも恋のうち」「C調言葉に御用心」と10位以内のヒットが続いたが、1980年に入るとシングルヒットが伸び悩みを見せるようになる。

急増したテレビやCMへの出演で精神的にも疲弊し、テレビには一切出ずに楽曲製作やレコーディングに集中すると宣言。3月に発表されたサードアルバム『タイニイ・バブルス』はオリコン1位を獲得したものの、2月から11月まで、この年計画的にリリースされた6枚のシングルはいずれも10位以内には届かなかった。

1981年7月には、桑田佳祐自身も手応えを感じたという傑作アルバム『ステレオ太陽族』がリリースされて6週連続で1位を獲得している。アルバムは間違いなく売れていたのだ。しかしながら、アルバム収録曲のシングル「Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)」と「栞のテーマ」はそれぞれ最高49位、44位と、楽曲の完成度に反してヒットには至っていない。

サザンの系譜は湘南サウンド「チャコの海岸物語」で見せた意図とは

そこでシングルヒットを出そうと決意した桑田がバンド生命をかけ、それまで培ってきた色モノ路線の極致をやろうと作られたのが「チャコの海岸物語」であった。桑田が意図したのは、造詣も愛情も深かったかつての歌謡曲やグループサウンズのパロディである。

加山雄三やザ・ワイルドワンズに代表される湘南サウンドの系譜にサザンオールスターズも連なっていることをあえて強調し、大衆向けの分かりやすいメロディで表現。それをトシちゃん(田原俊彦)の真似で歌った。色ものとシャレで成り立っていた歌謡曲の世界にサザンも乗っかってやろうという心意気があったという当時の心情が、桑田の著書『ただの歌詩じゃねえかこんなもん』(1984年)などにも綴られている。

チャコ、ミーコ、ピーナッツに込められたリスペクト

夏歌っぽいのに1982年1月の真冬におけるリリースだったことも意外だが、それも意図的なものだったろうか。“もう一度ベストテンに入りたい!” とストレートなファンへのアピールも功を奏して、最高2位、年間8位を記録する久々のシングルヒットとなったのだった。

TBS『ザ・ベストテン』では1位に輝いている。1~3番の歌詞にそれぞれ登場する名前、“チャコ” は所属レコード会社のビクターで当時ディレクターを務めていた飯田久彦、“ミーコ” は弘田三枝子、“ピーナッツ” はザ・ピーナッツと、桑田が敬愛する歌謡ポップスシンガーたちへのリスペクトが織り込まれているのも一興。

受け継がれた歌謡ポップスの遺伝子

さらに桑田は翌1983年のサザンのアルバム『綺麗』でも「MICO」を作って歌い、それに対して弘田三枝子がアンサーソング「O-Key」をMICO名義でシングルリリースしたのは、双方のファンを喜ばせた。

歌詞カードに「すてきな歌を歌ってくれてありがとう。この気持ち何と言っていいかわからないくらい。メチャクチャ最高だわよネ、オー・佳!! MIEKO HIROTA」と感謝の言葉が手書きの文字で記されているのも嬉しい。

サザンオールスターズというバンドでロックを表現してきた桑田佳祐が、歌謡ポップスの遺伝子もしっかりと受け継いだことの証明であったと思う。それも「チャコの海岸物語」があってこその話だった。なお、アルバム『綺麗』では「そんなヒロシに騙されて」でグループサウンズ的なアプローチも極めている。

桑田の音楽のルーツともいえる歌謡曲への愛は、後のライヴ『ひとり紅白歌合戦』でいよいよ爆発することになる。「チャコの海岸物語」はパロディ作品でありながらも、「君といつまでも」や「想い出の渚」といった湘南サウンドの系譜に連なる一曲に挙げられるだろう。偉大なる “歌謡曲” に感謝!

カタリベ: 鈴木啓之

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