「江川にカーブを投げさせた男」 元中日・中尾孝義氏が明かす“伝説”の舞台裏

1984年の球宴で巨人・江川卓氏とバッテリーを組んだ中尾孝義氏(右奥)【写真:共同通信社】

高校時代に合同練習で初対戦、同僚がかすりもしなかった速球をファウルに

かつて中日、巨人などで強打の捕手として活躍し、1982年にはシーズンMVPに輝いた現野球評論家・中尾孝義氏が自身の野球人生を振り返る。中尾氏には宿命的な間柄の選手がいた。同学年のライバルで、ある時はバッテリーを組み共に球史に残る名シーンを作った江川卓氏だ。「昭和の怪物」と呼ばれた江川氏との初対面は、高校3年の春のことだった。

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1973年3月、栃木・作新学院高の江川氏は第45回選抜高校野球大会出場のため兵庫へ乗り込んだ。開幕前、合同練習を行った地元・滝川高の「4番・捕手」を張っていたのが中尾氏だった。この時点で江川氏は、2年夏の栃木県大会で3試合連続ノーヒットノーラン(うち1度は完全試合)を記録するなど、野球ファンの間ではよく知られた存在だった。

滝川高ナインはシート打撃で江川氏に立ち向かったが、1番から3番までは快速球にかすりもしない。4番の中尾氏がようやく2球ファウルで粘った。「しかし、3球目か4球目が頭の付近に来た。咄嗟によけたら、これが縦に大きく割れるカーブでストライク。見逃し三振ですよ。ストレートとカーブの2種類だけでしたが、どちらも凄いボールでした」。

その残像は今も脳裏に焼き付いている。翌朝、中尾氏は地元紙で「江川にカーブを投げさせた男」と紹介されていた。江川氏はこの直後の選抜大会で準決勝まで進出し、4試合で1大会60奪三振の最多記録を樹立。全国にその名を轟かせた。一方、中尾氏は甲子園には1度も出場できなかった。

そんな2人が、意外な形で再会を果たす。図らずも同じ慶大進学を志望。当時、慶大野球部では翌年の入部を希望する高校生を対象に勉強会を開いており、江川氏と中尾氏は他の5人とともに9月以降、金曜の夜に上京し、2日間勉強して日曜夜に地元へ帰る生活を何週か繰り返した。中尾氏は「江川と言葉を交わしたのは、その時が初めて。最初は敬語に近いしゃべり方でしたが、何回か顔を合わせるうちに、性格がめちゃめちゃ良くて、明るく話が凄くうまい男であることがわかりました」と目を細める。

中日、巨人などで活躍した中尾孝義氏【写真:中戸川知世】

1982年に難攻不落の江川を攻略、リーグVを果たしMVPを受賞

残念ながら、2人は慶大の入試には不合格。江川氏は法大に入学した。中尾氏は1浪後に専大へ進み、さらに社会人のプリンスホテルを経て、1980年ドラフト1位で中日に入団したのだった。

そして中尾氏はプロ2年目の1982年、巨人の絶対的エースとなっていた江川氏から球史に残る一打を放つ。この年、中日と巨人は激烈な優勝争いを演じていた。最終盤の9月28日、ナゴヤ球場での直接対決は6-2と巨人がリードして9回裏を迎えた。マウンドには完投ペースの江川氏がおり、中日にとっては絶望的な状況だった。ところが中日は2点を奪い、なおも1死二、三塁。ここで中尾氏は江川氏が投じた外角速球を捉え、同点の右前2点打を放った。

「僕の野球人生で、速さだけなら江川より速い投手もいました。しかしホップするように見える球質の面で、江川以上の投手はいませんでした。ベルトの高さかなと思ったボールが、3、4個分上の胸くらいの高さに来ました」と中尾氏は証言。ただ、「僕は高校時代が1番凄かったと思っています」と言い切る。だからこそ、プロ2年目のこの球もそれほど速くは感じなかった。「ましてや、江川はあの試合で既に130球か140球を投げていて、本来の速さではなかった。僕の打撃の技量も高校時代よりは上がっていましたから」とうなずく。

中尾氏のタイムリーで追いついた中日は延長10回裏、大島康徳がリリーフした角三男から決勝打を放ちサヨナラ勝ち。2位ながら引き分け数が多かった中日に、逆マジック「12」が点灯した。最終的に中日が巨人をわずか0.5ゲーム差でかわし、8年ぶりの優勝。中尾氏はシーズンMVP、ベストナイン、ゴールデングラブ賞に輝いた。

“10連続K”を狙った84年球宴、ワンバウンドにするはずの変化球が高めに浮いた

その2年後の1984年には、2人はオールスターでバッテリーを組み、1971年の江夏豊(阪神)の9者連続三振に迫る“8者連続”を達成した。9人目の打者の大石大二郎(近鉄)もカウント0-2と追い込んでいたが、カーブを当てられ二ゴロ。中尾氏は周囲から「なぜカーブを投げさせたのか。ストレートなら三振を取れただろう」と言われた。高校時代とは別の意味で「江川にカーブを投げさせた男」となったわけだが、今では2人の間に“密約”があったことが知られている。

球宴で投手は最大3イニングまでしか投げられない中、6者連続を奪った時点で中尾氏は江川氏から「タイ記録ではつまらない。10者連続を狙いたい」と申し入れを受けていた。9人目の打者を2ストライクまで追い込んだら、江川氏はワンバウンドのカーブを投げて空振りさせ、中尾氏は故意に後逸して“振り逃げ”で一塁に生かし、次打者から10者連続三振を奪う目論見だったのだ。ただ、勝負のカーブは狙いよりも高めに浮き、バットに当てられてしまった。

中尾氏は「江川は“惜しかったな~”とあっけらかんとしていました。捕手としてはストレートをパスボールすることはできませんが、ストレートを投げていれば9者連続は取れていたと思います」と振り返る。そして「江川はプロ入り後、シーズン中は常に完投・完封を意識し、ある程度スタミナを温存しながら投げていましたが、あのオールスターだけは“高校時代に近い球”が来ていました」と評する。あくまで、あの高校3年の春を超える球を見ることはなかったのだ。

「江川がライバルだったなんて、とんでもない。雲の上のスーパースターでした」と中尾氏。とはいえ、江川氏がオールスターで“密約”を持ち掛けることができたのは、捕手が縁の深い同学年だったからこそだろう。昭和の怪物にとっても中尾氏は、特別な存在だったに違いない。

【動画】江川の凄さは「おしり」? 中尾孝義氏が明かした昭和の怪物から受けた衝撃

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(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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