「玉音放送」混乱の渦中に 元近衛兵、金井末作さん(98) 「兵隊だから死ぬのは当然」

戦争の記憶 2022ナガサキ

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徴兵前の1943年1月に撮影した金井末作さんの家族写真。前列右が末作さん、前列左は母ケイさん、後列左は妹ハルさん(金井末作さん提供)

 太平洋戦争が終結した1945年8月、長崎県西彼長与町高田郷の金井末作さん(98)は、近衛歩兵第2連隊の上等兵として宮城(きゅうじょう)(皇居)警備の任務に就いていた。当時21歳。終戦前日の8月14日から15日にかけて、日本の降伏に反対する一部の陸軍将校らが、昭和天皇の玉音放送を阻止しようと起こしたクーデター未遂事件の渦中にいた。戦史研究家の故半藤一利さんの著作「日本のいちばん長い日」にも描かれる「宮城事件」。「当時は命令に従うだけだった」と話す金井さんに、その日の記憶をたどってもらった。
 金井さんは長崎市出身で徴兵検査を受け43年4月、大村の歩兵連隊に近衛要員として入隊。同年12月に東京の近衛歩兵第2連隊に転属した。
 終戦前日の45年8月14日は、薄暗くなったころから宮城にある二重橋の立哨に上番(じょうばん)した。数時間して下(か)番(ばん)。二重橋の衛兵司令所で休憩していると、前庭に集合するよう命令された。白いたすきを渡され、それを掛けて司令所の北側に1人ずつ配置された。
 そこでは「天皇陛下の顔を覚えているか。もし陛下が変装して宮城の外に出ることがあっても分かるか」と上官に聞かれた。金井さんには分かる自信があった。「陛下が乗馬の練習を2時間されれば、その間、体の前で銃を垂直に持つ『捧(ささ)げ銃(つつ)』の敬礼をしていましたから」
 1時間すると「撤収」の命令。再び司令所前で「今から坂下門の衛兵に立て」と言われ、翌15日の午前2時ごろまでだったか、その任に就いた。この間、下士官が国民服を着た一般人二十数人を坂下門から宮城の中に連れてきた。さらに金井さんは二重橋の司令所に連れて行かれたその一般人を監視するよう言われた。
 「誰ひとり、ものも言わず、異様な感じでした」
 当時は何も知らされず、後から分かった話では、この一般人は放送局員で、終戦を告げる天皇の玉音放送を阻止するために監禁されていたようだという。
 この夜、戦争継続派の陸軍将校が近衛師団長を殺害。師団長の公印を使った偽の命令で近衛兵を動かしたが、クーデターは未遂に終わった。
 「師団長の公印を使って命令を出せば連隊長は命令を受け取ります。軍隊では命令は絶対的ですから」

 1945年8月15日早朝の宮城(きゅうじょう)(皇居)。太平洋戦争継続派の陸軍将校によるクーデターは、未遂に終わった。終戦を告げる天皇の玉音放送を阻止するために監禁されていた放送局員らは開放された。
 近衛歩兵第2連隊の上等兵として宮城の警備に当たっていた西彼長与町高田郷の金井末作さん(98)は、「何事もなかったような感じで、気合が抜けたようでした」と証言する。
 正午に大事な放送があるから集合するよう命令があった。金井さんら歩兵約20人は二重橋の門の上にある古い部屋に集められた。

終戦前日の8月14日から15日にかけて皇居で体験したことを語る元近衛兵の金井さん=長与町

 ラジオの両側に将校と下士官が1人ずつ付き、兵隊は2列に向かい合って整列。銃剣に弾を込めて互いに突き付け合い、終始無言で玉音放送を聞いた。
 「(相手を)刺せと言われれば刺すし、撃てと言われれば撃つ。兵隊だから死ぬのは当然でした。結局、何の命令もなく、『これで終わった』と肩が落ちるような感じがしました」
 15日以降は空襲のもらい火で焼けた宮城を整理し、長崎市に帰ったのは9月20日。米軍による長崎への原爆投下は新聞で知り、「家はもうないだろう」と諦めていた。音無町にあった実家は丸焼けで母と妹は被爆。母は8月25日に亡くなり、会えなかった。「私の名を何度も呼んでいたそうです」
 戦後、同窓会で「戦時中は近衛に、東京にいた」と話すと、戦地に行った人には好かれなかった。「いいもの食べて楽をして、と思われたのでしょう。外地に行った人は戦争のことを一切しゃべりませんでしたね。他の話題に変えたりして。生きるか死ぬかで戦ってきたのでしょう」

 「戦後76年以上、ここまでよく平和が続いた」と金井さん。「戦争は絶対にしてはならない。息子が2人いますが、昔だったら必ず戦争に行った。行かなかっただけ良かったと、今も夫婦で話します」

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 終戦から77年目を迎え、戦争体験者や戦時中を知る人々が高齢化しています。当時を知る県民の記憶を継承するため、県内各地の証言を伝えていきます。

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