圧巻! 女4代の歴史35年かけ刻む 発掘続けた高良留美子さん

By 江刺昭子

1953年ごろの高良一家。後列左から美世子、留美子、真木。前列左から祖母、武久、とみ

 昨年12月、88歳で亡くなった高良留美子(こうら・るみこ)は、詩人や評論家として知られるが、小説家としても作品を残している。

 中でも最も力を入れたのが、上下巻あわせて1000ページに及ぶ大著『百年の跫音』(御茶の水書房)だった。35年をかけて完成し、2004年に出版されている。(女性史研究者・江刺昭子、本文敬称略)

 「まえがき」に「はじめから意図したわけではなかったが、フィクションとノンフィクション、ドラマと語り、物語と歴史、小説と評論を総合する形になった」とある。父母双方の先祖の日記・手記・手紙をもとにした幕末から百余年にわたる壮大な物語で、特に母方の曽祖母から留美子へと受け継がれてきた女系の歴史が圧巻だ。

百年の跫音

 高良の母とみは女性解放運動家で政治家、父武久(たけひさ)は精神科医、不安や葛藤を受容して生きる「森田療法」の実践者だった。姉真木(まき)は画家で社会運動家。華麗な創造者一族で、さらにさかのぼると、父母双方とも4代にわたり、記録魔といっていいほど、身辺雑記から天下国家の事件に至るまで書きつづっている。

 小説の想を練りながら、高良は蔵の中や本棚の奥からそれらを発見し、ほこりをはらって現代によみがえらせ、歴史に位置づける仕事に夢中になっている。長年にわたって高良の本を担当したドメス出版の生方孝子(うぶかた・たかこ)は高良を「根っからの編集者」と評する。

 『百年の跫音』に登場する留美子の曽祖母、田島民(たみ)は宮中に養蚕婦として出仕した人。現在も皇后が行う宮中養蚕は、1871年に明治天皇の皇后美子(はるこ)が大蔵省にいた渋沢栄一と相談して始まった行事で、渋沢が推薦した養蚕婦の一人が、群馬県島村の蚕種業者、田島弥平の娘の民だった。

 彼女は吹上御苑で皇后とともに行った作業を克明に日記に残した。この日記に、高良が時代背景など詳細な解説を付けて出版した『宮中養蚕日記』(ドメス出版、2009)は貴重な記録だ。

 民の娘の和田邦子(高良の祖母)は、明治時代に横浜のミッションスクールに学んだクリスチャンである。日本基督教婦人矯風会に属し、売春に公的な保護を与える公娼(こうしょう)制度の廃止を求める廃娼運動などに関わりながら、娘のとみ(高良の母)に自立を促し、山を売り、野菜栽培や養蜂で得た金で、とみの米国留学を支えた。

 1896年生まれのとみは21歳で渡米。コロンビア大やジョンズ・ホプキンズ大大学院で学び、「飢えの研究」で博士号を取得した。帰国後、九州帝国大の助手を経て、1927年に日本女子大学校の教授に就任。高良武久と結婚して3人の娘を得た。

 研究室に閉じこもらず、国際的な人脈と行動力を生かしてタゴール、ガンジー、魯迅らと会ってアジアの平和運動に関わり、国内では女性参政権運動などに力を入れた。太平洋戦争開始の前年には大政翼賛会に議員として参加した。

 戦後、参院選の全国区で当選し、国交のない時期のソ連と中国に入り、日本婦人団体連合会(婦団連)結成のきっかけを作るなど、近現代史に大きな足跡を残した。しかし、戦中の言動から全体主義者とも見なされ、彼女の歩みは一筋縄では捉えきれない。

 高良はその複雑に屈折した人生を、未発表原稿や書簡を中心に読み解き、詳細な注と解説をつけて、『高良とみの生と著作』全8巻(ドメス出版、2004)にまとめた。

高良とみの生と著作

 高良は、とみの「戦争協力」という公的側面を晩年まで擁護しているが、母としてのとみに対するこだわりも、長くひきずっている。

 とみは武久と進歩的な家庭を築き、娘たちはいずれも羽仁もと子が設立した自由学園に学んでいる。とみが留守がちで犠牲になったのが高良の妹、三女の美世子(みよこ)だという。幼児期には溺愛しておきながら、多忙になると、かまわなくなった。美世子は拒食症になり1955年、18歳のとき自死した。

 彼女の中学高校時代の日記、手紙、詩、創作などの遺稿と、家族の書簡や文章で構成したのが『誕生を待つ生命―母と娘の愛と相克』(自然食通信社、2016)で、装丁には真木の絵が使われた。高良は「解説」で、美世子の死を母、家族との関係で捉え返し、自分も母によるネグレクトに苦しんだと明かしている。

誕生を待つ生命

 真木は、女性の立場から息の長い日中友好活動を続けた人で、画家としては40代で世に出て、2011年に80歳で亡くなった。

 高良が神奈川県真鶴の真木の家を整理していたら、小中学校時代の絵日記が出てきた。戦争中も行われた学園の自由画教育が真木の絵心を育んだとして、高良真木著・高良留美子編『戦争期少女日記―自由学園・自由画教育・中島飛行機』(教育史料出版会)を2020年に出版した。子どもの目に映った戦中の生活記録である。

 親族ではないが、真木が後半生をともに過ごした童話作家、浜田糸衛(いとえ)の遺稿集『浜田糸衛 生と著作』上(ドメス出版、2016)下(同、19)も、高良が中心になってまとめた。浜田は婦団連の事務局長を務め、日中友好神奈川県婦人連絡会を創設、中国との懸け橋になるべく活動した。

 真木が準備していた浜田の著作集出版を引き継いだことで、高良は「日本と日本人にとっての中国の存在の大きさ」を強く感じ、浜田が歩いたように「人間の交流を盛んにしていくこと」が大切だと、結びの言葉にしている。

 また同書の「あとがき」に「女性の書いたものは未だ発掘段階にあることを痛感した」とあり、命の時間が与えられていたら、さらに埋もれている女性の記録を世に送り出したと思う。逝去が惜しまれる。

高良留美子さん

© 一般社団法人共同通信社