半世紀前の赤坂に著名人が集う伝説の「宇宙船クラブ」があった!大ベテラン歌手が証言

新型コロナウイルスの感染爆発でイベントの中止や延期が相次いでいる。1970年代初めに脚光を浴び、約2年で引退したものの、近年の再評価で活動を再開した歌手で女優のフラワー・メグも2月8日に都内の代々木上原・けやきホールで開催予定だった自身初のホールコンサートを7月12日に延期すると発表した。苦渋の決断と共に、自身の原点を見つめ直したメグは、よろず~ニュースの取材に対し、デビューのきっかけとなり、都市伝説となっている東京・赤坂のクラブ「スペース・カプセル」について証言した。(文中敬称略)

都内の高校卒業後に舞踊研究所でダンスを学び、70年の暮れからスペース・カプセルのショーに出演。その姿を見たNETテレビ(現テレビ朝日)のディレクターにスカウトされ、71年4月開始の「23時ショー」でカバーガールに起用されて芸能界入り。その原点となった同店は68年10月にオープンし、72年頃まで営業したが、そうそうたる顔ぶれが関わっていた。

宇宙船をイメージした内装を手がけたのは建築家・黒川紀章。ブレーンとして作家の石原慎太郎、詩人の谷川俊太郎、劇作家で劇団「天井桟敷」主宰の寺山修司が名を連ねた。ショーの演出は寺山、イラストレーターの宇野亜喜良、前衛舞踏家の土方巽らが手掛け、当時30代のオーナーで実業家の山名雅之氏と親交のあった石原をはじめ、横尾忠則、岡本太郎、山本寛斎らが訪れた。

「黒川さんの設計で階段を降りてドアを開けると、そこは壁も天井も床もオール・ステンレスで宇宙船の中にいるイメージでした。テーブルにもスピーカーが内蔵されていて、そこからも音が出てくるという、当時話題になったゴーゴークラブです。女の子は全員シースルーのミニのワンピースで接客。バンドはジャズピアニスト・池野成秋トリオが入り、毎夜、前衛ショーが始まります。状況劇場、天井桟敷、宇野さん、谷川さん、土方さんなどが関わったショーでした。お客様も石原さん、森ビルの森(稔)さん、三越の岡田(茂)さん、横尾さん、(写真家)大竹省二さん、黒川さんなど多くの文化人のたまり場でもあるため、雑誌、テレビ、映画関係の方々も多く出入りしていたと記憶しています」

メグが保管している当時の掲載誌によると、横尾は68年当時に「壁も天井も無数の突起したランプが赤や青や黄やなんかに点滅しながら光が走り回っており、映画『2001年宇宙の旅』のコンピューター〈ハル〉の内部を想起させる…」と記している。夜9時と11時の2回、フロアではショーが繰り広げられた。

「私も週2回、谷川さんの『アダムとイブさ君と僕』を(天井桟敷の俳優)下馬ニ五七さんと。劇団NLTの川端槇二さんと坂上道之助さん振付による『人魚姫』に出演していました。それをきっかけに平凡パンチのグラビアや(日本テレビ系)『11PM』に対抗した『23時ショー』の初代カバーガールに抜てきされました。ただし、このカバーガールはヌードで出演したため教育上よくないと抗議の電話が殺到したようで4回ほどで降板になりました。日本のテレビ史上初のヌードになった女性になっちゃってます」

72年に山名氏と結婚して引退。店も幕を閉じた。

「普通の女の子がふとしたきっかけで暗黒舞踏を覗いたことからショーガール、グラビアアイドル、モデル、女優など、大人たちの世界をいつのまにか歩いていた。こんな感じだったと思います。自分ではフラワー・メグが世の中でどう評価されているということにはあまり興味がなかったし、大人たちが期待している過激なフラワー・メグに応えていく自分と素の自分との距離ができていくのを感じていました。フラワー・メグを世の中に出したオーナーの山名氏はスペース・カプセルとさよならして、私はフラワー・メグにさよならして結婚をし、その後は一切、フラワー・メグに触れる事はなく、家庭に入り、3人の子育てをしていました」

閉店から50年、記者は残された住所を頼りに店の跡地を訪ねた。東京メトロ・赤坂駅から徒歩約5分。繁華街から離れ、マンションやホテルが立ち並ぶ閑静な場所で、当該の番地には賃貸マンションが建っていた。向かい側の公園に立ち、かつて同店のあった場所をながめた。つわものどもが夢の跡。その地下で連夜繰り広げられた「祭」から半世紀を経た時の流れを静寂の中でかみしめた。

(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)

© 株式会社神戸新聞社