追悼・石原慎太郎先生|鈴木宗男 叩き上げの野性味溢れる中川一郎先生と、都会出身、インテリ風で時代に合った雰囲気の石原慎太郎先生とのコンビは、絶妙な組み合わせであった。

石原慎太郎先生の礼儀

石原慎太郎先生が亡くなったことを報道で知る。さまざまな想い出、出会いが脳裏(のうり)を過(よぎ)った。

昭和43年、石原先生が参議院全国区に出た際、当時拓大の3年生だった私は選挙参謀であった飯島清さんの縁で石原先生の選挙の手伝いをすることになった。

「日本の新しい世代の会」という団体を作り、颯爽(さっそう)たる政界デビューだった。

昭和44年、私が中川一郎先生の秘書になり、昭和48年「青嵐会(せいらんかい)」(政策集団)を作る時から頻繁に顔を合わせるようになった。

永田町でも霞が関でも中川一郎イコール鈴木宗男と言う定評が拡がり、石原先生も私に配慮してくれた。

昭和57年、自民党総裁選挙「中川一郎出るべし」と強く発言したのが石原先生で、中川先生も触発(しょくはつ)された面がある。

昭和58年1月9日、中川先生が旅立たれてしまったことは、政治家石原慎太郎先生の将来にとっても少なからずの影響があったことと思う。

叩き上げの野性味溢れる中川一郎先生と、都会出身、インテリ風で時代に合った雰囲気の石原慎太郎先生とのコンビは、絶妙な組み合わせであった。

一言居士(いちげんこじ)の石原先生だったが、中川一郎先生と意見衝突したり、何かでぶつかることはなかった。石原慎太郎先生なりの配慮、先輩に対する礼儀だったと思う。

天国で今の政治をどう思い見ているのか。天国で今一度「青嵐会(せいらんかい)」を始めるのか。お二人のお顔が目に浮かぶ。心からのご冥福をお祈りしてやまない。

(2022年2月1日「ムネオ日記」)

鈴木宗男

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