現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性、一体誰なのか(後編) 身元判明、そして分かったこと

行旅死亡人の女性。遺品のアルバムから

 現金3400万円を残して亡くなった高齢女性。警察も探偵も身元を明らかにできなかった「行旅死亡人」だが、遺品の印鑑に刻まれた「沖宗」という珍しい姓を手がかりに、私たちはついに女性の身元を特定した。(共同通信=武田惇志、伊藤亜衣)

   (前編はこちら)

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 ▽全国に100人程度しかいない珍しい姓

 インターネット上の情報では、「沖宗」姓は全国に100人程度しかいないという。沖宗家のルーツをブログで追究する広島県府中市の自営業、沖宗生郎さん(72)にメールで調査への協力を依頼すると、「私の親戚かもしれない人ですしね」と快諾してくれた。

 まず、電話帳で調べた各地の沖宗さんに取材しつつ、生郎さんが持つ江戸時代からの系図とつなぎ合わせることで、沖宗一族の家系図を作成することにした。

 その中に、よど号ハイジャック事件(1970年)の際に搭乗していた元客室乗務員の沖宗(旧姓)陽子さん(73)も含まれていた。彼女が保有していた詳細な系図を提供してくれたこともあり、ほぼ全国の沖宗姓の分布を網羅。その結果、系図が判明しないのは広島市内に点在する沖宗姓に絞られた。

 そこで昨年6月中旬の休日、広島市へ赴き、接触できていない沖宗姓を尋ね歩いた。2日間で計約10軒の沖宗さん宅を訪れ、「周囲で行方が分からない女性はいませんか」と聞いたり、女性の写真を見せたりして回った。しかし「聞いたことありませんね」と言われるばかりで、ほとんど手応えが得られなかった。

元広島市議の沖宗正明さん

 唯一、気になる話をしたのが元広島市議(自民)の沖宗正明さん(70)だ。玄関先で取材に応対してくれた。事情を説明すると「今春、亡くなった母には妹がいたそうですが、どこにいるのか…。母は何も話したがらず、気になっていました」と明かし、「市役所で戸籍を確認してみます」と言ってくれた。

 ▽興奮した口調で「私の叔母でした」

 「千津子は私の叔母でした」。週明け、普段の仕事をしていると正明さんから携帯に電話があり、興奮した口ぶりでそう告げられた。

 戸籍上、千津子さんは正明さんの母である照子(故人)さんの妹で、4人姉妹の次女に当たっていた。姉妹は広島市南区の宇品地区の出身で、病院のカルテにあった「23歳まで広島におり、3人姉妹がいた」との生前の本人証言とも合致する。唯一違ったのは、生年が1933年となっていたこと。45年9月生まれとなっていた年金手帳の記載より12年も古かったことだ。

 33年と45年9月の間には、第二次世界大戦がある。「なんらかの理由で、生年月日を45年8月6日の原爆の日の後にずらそうとしたのだろうか?」との疑問も浮かんだ。正明さんによると、経緯は分からないが照子さんは被爆者健康手帳を持っていたという。それにしても実年齢と干支(えと)が1回りも違っていたとは衝撃的だった。

戸籍謄本と年金関連の書類。生年月日が12年も違っている

 相続財産管理人の太田弁護士を通じ、判明した事情を兵庫県警へ連絡したところ、事態は動きだした。警察はDNA鑑定を実施。そして4カ月後、ついに遺体が「沖宗千津子」さん本人と判明した。婚姻歴がなく、自宅の契約名義だった「田中」姓には改姓していなかったことも分かった。

 正明さんもその後、少しずつ叔母の記憶を思い出していった。「確かに、子どものころ会った覚えがあります。けれど、彼女が30歳前後に広島を離れて関西へ出て以降、疎遠になったままでした。こんな形で再会するとは…人生とは何かを考えさせられる出来事です」

 残念ながら、千津子さんの姉妹のうち2歳年上の長女の照子さんと、10歳年下の末妹の2人は亡くなっていた。存命の三女も認知症で、詳しい話を聞くことはできない。

 めいの一人は「母は3姉妹だと聞いていた」と驚いていた。このエピソードも、千津子さんが何らかの事情で身を隠して生きていかざるをえなかった事情を私たちに想起させるものだった。 

 ▽「卒業後ぱたっと音信が…」

 千津子さんが生まれた広島市南区の宇品地区も訪れた。すでに姉妹の生家はなく、新たな住宅が建っており、当時を知る人は見つからなかった。一方、姉妹の母の生まれ故郷で、千津子さんが国民学校と中学時代を過ごした広島県呉市川尻町の小用(こよう)地区には、確かな痕跡が残されていた。

広島県呉市川尻町の小用地区の風景

 瀬戸内海に面した港町、小用地区は漁業と海運の町として知られており、姉妹の父も船乗りをしていた。父母がどのように出会い、結婚したのかは定かではない。

 地区は山に沿って小さな民家が所狭しと立ち並んでいるが、一帯は空き家が多い。一歩入ると、車が通れないほど細い道が迷路のように続いていた。

 沖宗家を知る人を訪ね歩いて1時間。出会ったのが中土井ヒサヱさん(87)で、千津子さんより1学年下だが、同じ中学校に通っていたという。千津子さんの写真を見せると、「これや、千津子さんやな。千津子さんはどこ行っとったんかね。ええような人じゃった」と目を細めた。

 「千津子さんの親戚が住んどるけん」。教えてもらった住宅に行くと、親族の女性が現れ、千津子さんの実家を案内してくれた。坂の途中に建つ木造の平屋は葉に覆われ、長年空き家となっていた。

千津子さんが住んでいた平屋

 太平洋戦争末期、広島市で国民学校生徒の疎開が始まったころ、11歳前後だった千津子さんは宇品地区から小用に疎開。終戦後に隣町の安登中学校を卒業している。

中学時代の千津子さん(前列右から3番目)

 中土井さんの紹介で、国民学校と中学時代の同級生だった川岡シマヱさん(88)とも会うことができた。隣町に続く長い坂道を通って毎日、一緒に登校していたという親友だった。「千津ちゃんは、たいへんおとなしい人なんじゃわ。学校行きよる時、うちが家から出てくるのを遠慮がちに待ちよってねえ」。中学時代の千津子さんとの写真を見ながら「千津ちゃんは髪が癖毛じゃった。歌が上手やった」と懐かしんだ。千津子さんは原爆投下時、疎開で小用にいたことになり、川岡さんも小用からキノコ雲を目撃したという。

 「中学を卒業して、広島市に戻ったのを最後にぱたっと音信がなくなって。どうしとんじゃろうと、村でも話題になっとったが…」

川岡シマヱさん

 ▽姉妹でたばこ工場に勤めていた

 おいの正明さんによると、母の照子さんは日本専売公社の社員だったが、一時期、姉妹で広島市南区の広島工場に通っていた記憶があるという。後身の日本たばこ産業(JT)が運営する「たばこと塩の博物館」(東京都墨田区)に問い合わせると、1956年度の広島工場の名簿が残されており、「巻上課」に「沖宗千津子」の名前があった。

 元社員数人に問い合わせても彼女を知る人はいなかったものの、唯一、広島市の丹羽和光さん(81)が覚えていた。丹羽さんは59年に専売公社に入社。丹羽さんによると、当時巻上課には約200人の社員がおり、一番人数の多い部署だった。そのうち男性は5分の1程度の女性職場で、千津子さんは機械の操作員だった。

名簿に残された氏名=「たばこと塩の博物館」蔵(一部修正しています)

 丹羽さんが千津子さんのことを覚えているのはなぜかと問うと「小柄できれいな人だったから」とはにかんだ。67年に新しい機械を導入したころには千津子さんは退職していたと記憶しているらしい。

 千津子さんは生前、「23歳の時に広島を出た」と話している。実年齢に合わせると当時は35歳だったことになり、1968年ごろだ。高度成長期の真っただ中。大阪は、70年開催の万博へ向かって活気にあふれていた。

 私たちは再び、原点の尼崎市にあった千津子さんの自宅に戻った。広島からここに移り住んだ彼女はどんな生活をしていたのだろうか。94年に製缶工場で起きた労災事故からさらなる手掛かりを見つけられないかと考えた。

 製缶工場は99年に看板を畳み、跡地には住宅が建っていた。周辺を訪ね歩いて出会った経営者の親族女性は、あの事故のことを覚えていた。千津子さんが普段より早く昼休みから工場に戻り、業務を再開した直後に事故が起きたという。

沖宗千津子さんの年表

 60歳を過ぎてから右手指を全て失う事故は、彼女にどのような影を落としただろうか。女性によると、事故後は工場ともめることもなく退職したということだった。「(千津子さんには)旦那さんがいたはず。周囲とあまりコミュニケーションを取らず、誰に対しても心を開いてなさそうだった」と打ち明けてくれた。

 ▽遺骨は届けられ、遺産も解決したが…

 警察庁によると2019年、全国で行方不明者は約8万7千人。行旅死亡人は年間600~700件ほどが官報に公告される。高齢者の孤独死に関する公的な全国統計はないが、ニッセイ基礎研究所が2011年に発表した推計では年間約2万7千人に上っている。何らかの事情で地縁や血縁から離れた末、人知れず亡くなる人々は万単位で存在するが、千津子さんもその一人だった。

 遺品には子どもの写真が2枚含まれていた。1枚は姉照子さんの次男、もう1枚は妹の長女と判明した。長い間、連絡を絶っていた姉妹の子どもの写真を大事に持っていたのはなぜなのか。故郷を離れて世間の目から隠れるように暮らしながらも、ずっと家族のことは忘れていなかったのだろう。

 無縁仏として尼崎市の斎場に納められていた千津子さんの遺骨は、昨年末、おいの正明さんの元に届き、菩提寺に納められた。自称・田中千津子さんが沖宗千津子さんと判明したことで、その相続人も確定し、遺産の件も無事、落着した。

 千津子さんが育った町を歩き、友人や知人を取材していると、ほとんどが無縁仏となる「行旅死亡人」にもそれぞれの人生があり、生の痕跡が確実にどこかに残されているものだ、ということを強く思った。しかし、それでも彼女がどんな後半生を送ったのかは分からないまま。尼崎市のアパートを契約した「田中〇〇」という男性がどこの誰かも分かっていない。千津子さんの部屋には「田中〇●(〇〇と漢字が一字異なる)」宛ての大型家電量販店やガス会社からのはがきが残されていた。「田中〇●」の名前で購読していた新聞は2011年に契約を打ち切っていた。

沖宗千津子さん(右)と一緒にいた男性

 千津子さんはなぜ広島を出たのか。12歳も年齢を偽っていた理由は何だったか。アパートで亡くなるまで身を隠すように暮らしていた日々について、何か新たな手掛かりは見つかるだろうか。「故郷を50年以上も離れ、叔母はどんな人生を送ったのだろう。幸せだったんでしょうか?」。正明さんの言葉が重く切なく響いた。

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