【お祭りトリビア連載1】青森「ねぶた」は「眠たい」が語源だった!?

型コロナウイルス感染症の影響もあって、全国では有名な祭りも中止に追い込まれています。各地の祭りは暮らしに溶け込んでいて、その当たり前の価値に今さらながら気付かされている人も少なくないはず。そこでTABIZINEでは、全国各地の有名な祭りに目を向け、それぞれの価値や見どころ、トリビアを連載で紹介していきます。今回は青森の「ねぶた祭」です。

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名前は知っているけれど詳しくは知らない、一度も訪れた覚えがない有名な祭りは、全国各地に多いはずです。いつか訪れる祭の再開と初訪問に備え、旅の下調べを兼ねてぜひ読んでみてくださいね。

青森ねぶた祭は「ねぶた祭」の1つ

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最初に紹介する日本の祭りは「ねぶた祭」です。「ねぶた祭」というと青森県を思い浮かべると思います。さらに言えば、

<大型の張りぼて人形>(朝日新聞『知恵蔵』より引用)

が車輪のある台に乗せられて、大勢の人に引き回されている様子を連想すると思います。テレビや雑誌、インターネットなどで、巨大な人形を乗せた山車が繰り返し露出しているからですね。「はねと」と呼ばれる一団と共に山車がまちを練り回る様子はエネルギッシュそのものです。

しかし、その紙張りの巨大な「張りぼて」人形が山車に乗せられて引き回される「ねぶた祭」は、正確に言えば青森ねぶた祭です。言い換えれば、東北を中心に各地にある「ねぶた祭」の1つにすぎません。しかも、この場合の「青森」は青森市を意味します。

青森市で毎年8月に開催される青森ねぶた祭が突出して有名なので、ねぶた祭=青森ねぶた祭との理解になってしまいがちですが、巨大な張りぼて人形を引きまわす青森ねぶた祭は「ねぶた祭」の1つに過ぎないのですね。

「ねぶた」と「ねぷた」

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では「ねぶた」とは何なのでしょうか。同じ青森でも弘前市では「ねぷた」と言われています。とはいえその言葉の由来を説明する前に、青森の地理をおさらいした方がいいかもしれません。

そもそも青森市と弘前市がどこにあるのか、正確に理解していない人の方が多い(少なくとも関東以西の人は)と思うからですね。

手元に地図がない人は、北海道の下にある本州最北端(青森)の地形を大まかに想像してみてください。

武者のかぶとのような形をした青森県は、北に向かって(北海道に向かって)2本の角のような半島が伸びています。東が下北半島、西が津軽半島、それらの半島に囲まれてリンゴのような形をした陸奥湾があります。その陸奥湾の奥、いわばリンゴのお尻の位置に青森市があります。現在の県庁所在地ですね。

しかし、青森には意外にも(と言ったら失礼ですが)人口10万人以上の大きなまちが青森市以外にもあります。青森市を三角形の頂点と考えた時、左下の内陸部に弘前市、右下の太平洋側に八戸市があります。

ねぶたをねぷたと呼ぶ弘前市は、この内陸部の弘前市になります。リンゴ栽培が有名で、津軽富士と言われる岩木山が眺められます。県下にある国立大学の弘前大学も弘前にあるため文教都市とも言われています。

こちらの弘前でも弘前ねぷたまつりが毎年行われています。同じ「ねぶた・ねぷた」でも、青森ねぶた祭がエネルギッシュでパワフル(かつては「カラス」と呼ばれる若者たちが祭りに乗じて浮かれ騒いでいた)、弘前ねぷたまつりが上品で優雅といった特徴が、あえて分類すればあります。

本題に戻りますが、多少言い方こそ違うものの「ねぶた・ねぷた」とはもともとどういった意味なのでしょうか?

「眠た流し」の習俗

「ねぶた」を辞書で調べると似た言葉で「ねぶたい」が出てきます。清少納言『枕草子』でも「いみじうねぶたしと思ふに」と書かれているように、

<ねむたい。ねむい>(岩波書店『広辞苑』より引用)

との意味があります。『精選版 日本国語大辞典』には、

<植物「ねむのき(合歓木)」の異名>

とも書かれています。ネムノキとは、夜になると葉っぱが閉じて垂れる植物で、この葉っぱで目をこすると、睡魔を追い払えるとの考えから、仕事の眠気を覚ますためにネムノキの葉で目をこすって流す「眠た流し」という習俗が存在したそうです。

その「眠た流し」の習俗と、お盆に霊を送る火祭りが結び付き、次第に各地で風流化して、青森市や弘前市では現在のねぶた祭・ねぷた祭へと発展していった(と考えられている)のですね。

時代に合わせて変化する祭

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ねぶた祭・ねぷた祭はもともとの形から大きな変化を遂げてきたと語りました。第二次世界大戦後の歴史だけ見ても「ねぶた祭」はどんどん変わっています。

第二次世界大戦中に開催が中止されていたねぶた祭が、青森市で復活した年は終戦から2年後、1947年(昭和22年)です。しばらくは各町内で有志が竹や針金で枠をつくって紙を張り、明かりを中にともして車輪付きの台に乗せ、町内を引き回す小規模な祭でした。

しかし、祭の知名度が増して見物客が増え始めると、1960年代には山車の大型化が決定的になり、合同運行が始まります。エンターテインメント性が増したのですね。例えば、1962年(昭和37年)の青森ねぶた祭では、大型の山車が16台も出陣しています。

https://youtu.be/HedllDfMi0Y

さらに、1970年代に入って祭の規模が拡大し日本屈指の夏祭りに成長すると、大企業がスポンサーとして入るようになり、巨大なねぶたを専門に製作するねぶた師という職業が生まれます。

ねぶた制作の技術が飛躍し、その技術を競う賞が毎年設けられるようになり、佐藤伝蔵さんや鹿内一生さんのような名人も現れました。

しかし、新型コロナウイルス感染症の影響で2年連続青森ねぶた祭が中止に追い込まれると、そのねぶた師も収入源を失います。青森ねぶた祭実行委員会事務局がクラウドファンディングを実施し、ねぶた師14人の共作の機会をつくり、そのための資金を募るなど新しい試みが見られました。

結果として生まれた展示大型ねぶた『願いの灯 ~薬師如来・玄奘三蔵と十二神将~』は、『ねぶたの家 ワラッセ』という観光交流施設に展示されています。クラウドファンディングでプロのねぶた師が共作をするなど、戦後には考えられない話ですよね。

そもそも、青森ねぶた祭の開催期間も戦後と今では変わっています。今でこそ、前夜祭を除けば毎年8月2日~7日ですが、戦後は3日間と短い祭でした。

時代に合わせてどんどん変化を遂げている、逆を言えばそれだけ時代と市民の関心に寄り添っている、まさに生きた祭なのですね。

地域の暮らしに密着した晴れの舞台

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全国各地で有名な祭りが軒並み中止に追い込まれる中、地域の暮らしに密着した晴れの舞台を失った住人たちの喪失感は高まっていると思います。

青森市に暮らす知人に声を掛けてみたところ、短い夏の一大イベントを楽しめないストレスはやはり大きいらしいです。子育て中のその人は子どもに夏の思い出をつくってあげられないもどかしさといらだちが特にあるとコメントをくれました。

規模こそ違いますが、富山に暮らす筆者の周りでも有名な祭が幾つも中止に追い込まれ、苦情を口にする人を多く見掛けます。夏が短い地方の人たちにとって、エネルギーの一大開放の場が、夏祭りでもあるわけです。そのストレスはそろそろ限界に達しているのかもしれませんね。

とはいえまだまだ身動きが取れない時代が続きそうです。せめてもの抵抗として、祭りが戻ってきた時に今まで以上に楽しめるように、自由に外に出られない今の時間を使って、各地の祭りに詳しくなりたいですね。

[参考]

※ ねぶたの由来 - 青森ねぶた祭実行委員会事務局

※ 青森ねぶた、2年連続開催断念 - 東奥日報

※ ねぶた師支援のために前代未聞の企画を実現!ねぶた師合作“特別ねぶた”を作りたい! - CAMPFIRE

※ 青森のねぶた - 国指定文化財等データベース

※ <ねぶた>鬼も出陣準備よし 台上げ完了 - 河北新報

※ 「ねぶた師を目指して」 林広海 - 「奏海─かなみ─」青森まちかど歴史の庵

※ ふるさと歴史館シリーズ01「1960~1970年代の青森ねぶた祭」 - YouTube

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