日系人野球の父は「なぜ殿堂入りしないのか」 知識検定の設立者が伝える偉業

1934年の日米野球で来日したベーブ・ルース(右から3番目)【写真:Getty Images】

一木良文さんは日米野球の架け橋となった銭村健一郎氏の殿堂入りを訴える

野球に携わるすべての人の知識向上を目的に、2010年に誕生した野球知識検定。野球文化を広げようと始まった試みは徐々に浸透し、これまでに約8000人が受験している。この検定を立ち上げた一木良文さんがその意義などを語った他、かつて日米野球の“架け橋”となった人物が世に知られていないことを嘆き、「ぜひ殿堂入りを」と強調した。

野球知識検定は2010年に始まり、現在は東京と大阪でそれぞれ年2回ずつ実施。問題は基本的なルールをはじめ、国内外問わず幅広いカテゴリーの記録・歴史・エピソードなど多岐に渡る範囲から出題される。初級の6級から、最難関の1級までがあり、1級の合格者は1桁にとどまる。

「野球の知識人が得られる称号を何かつくりたかった。昨年、長嶋茂雄さんが文化勲章を受章されたように野球は文化です。なかなか黒字とはなりませんが、受験者は本当に喜んでくれる。それを励みにここまで続けてきました」

野球を文化として発展させたい――。その思いで野球検定を開く一木さんが「殿堂入りに相応しい人物として、本来なら“いの一番”に名前が挙がらなければいけない」と強調する人物がいる。昭和初期に日米野球の架け橋となった銭村健一郎氏だ。

銭村氏は昭和初期のニグロリーグ来日に尽力した

1900年に広島に生まれた銭村氏は子どもの頃に家族でハワイへ移住。その後カリフォルニア州フレズノに移り、日系人チーム、日系リーグを設立した。日系チームの一員として複数回来日して日本のチームと対戦した他、1927年にはニグロリーグ来日に尽力した。

これが1934年のMLB選抜の来日に結びついた。ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらで構成されたMLB選抜は、全日本相手に16戦全勝の成績を収めたが、17歳の沢村栄治投手が見せた8回9奪三振1失点の快投は現在も語り草になっている。また、銭村氏の息子である健三氏と健四氏は1953年途中に球団初の外国人選手として入団。健四氏は1954年オールスター出場を果たしている。

こういった経緯から銭村氏は「日系人野球の父」「日米野球の架け橋」とも称される。一木さんは「ニグロリーグ来日は歴史的にも意義があり、日本の野球の良さを米国に届けた人なのです。銭村さんがなぜ殿堂入りしないのか」と疑問を投げかける。

一木さんは「野球の歴史をもっと学んでほしい。そうすればもっと愛着が湧きます」とも訴える。歴史を知れば、野球への造詣が深まり、見方も変わってくる。その一助になればと知識検定を実施する。「続けているうちに意義を感じ始めました。今後はもっとステータスを高めていきたいですね」と力を込めた。

○野球知識検定 初級の6級から最難関の1級まである。6~4級は100問、3~1級は50問出題され、4~1級の合格基準は80%以上(同じ問題が出題される6級は70%、5級は90%)。出題者には、元プロ野球審判員らもいる。合格者には認定書、認定カード、認定ピンバッジが授与される。これまでに約8000人が受験、1級合格者は1桁にとどまる。詳細は公式サイトで。(片倉尚文 / Naofumi Katakura)

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