1972年2月、真冬の長野県軽井沢町の山荘で、未曽有の立てこもり事件が起きた。千人を超す警察官、山荘にぶつかる巨大な鉄球、犯人側の激しい銃撃、そして死者―。過激派の連合赤軍によるあさま山荘事件だ。元警察庁長官で、当時は広報担当として現場にいた国松孝次さん(84)がインタビューに応じ、時代の転換点となった事件の様子や背景を振り返った。後にオウム真理教事件のさなかに何者かに銃撃され、生死の境をさまよった治安組織の元トップが語る事件の教訓とは。(共同通信=岩橋拓郎)
▽真っ白な現場
連合赤軍が立てこもりを始めたのは1972年2月19日。当時、国松さんは警視庁広報課長を務めていた。武装した過激派による立てこもりは大ニュースとなり、報道陣は長野県警担当はもちろん、警視庁担当記者も多数が現場に押し寄せた。テレビ局や雑誌なども含めて千人を超え、記者会見の仕切りや関係機関との調整役として国松さんに白羽の矢が立った。
国松さんは到着した厳寒の軽井沢の風景を「白以外ない」と記憶している。辺り一面は雪に覆われ、「とにかく寒い。2、3日で終わるだろうと思って行ったんですが、防寒対策が不十分で大風邪をひいてしまった」。実際には28日まで10日間、220時間近くの攻防が展開されることになった。
▽学生運動から「世界同時革命」へ
そもそも連合赤軍とは何なのか。なぜ、日本有数の避暑地の山荘に立てこもり、警察との対峙を続けたのか。
70年前後は学生運動の嵐が吹き荒れた時代だった。激化するきっかけは東大闘争。68年に東大医学部で研修医無給制度に対する反対運動が起き、無関係の学生が処分されたことが引き金となった。日大や早稲田大などでも、学生自治や学習環境整備を求めた学生運動が活発になった。
東大では安田講堂に立てこもった学生らを機動隊が排除して鎮圧し、学生運動は次第に下火に。ところが先鋭化した一部の若者らは大衆的な広がりを欠く中で、武装蜂起し革命運動に発展させようと赤軍派を結成した。「世界同時革命」を夢見て北朝鮮や中東に渡ったメンバーとは別に、日本に残ったメンバーが別の組織と共闘して生まれたのが連合赤軍だ。
メンバーは群馬県の山中に築いたアジトで射撃訓練をしていたが、警察に見つかり逃走。山を越えて長野県側に入り、たまたま逃げ込んだのが河合楽器の保養所「あさま山荘」だった。メンバーの男5人が管理人の妻を人質に取って籠城を開始。山荘の周辺は長野県警や応援の警視庁機動隊などが取り囲み、その陣容は最も多い時で約1400人に達した。
▽鮮血に染まった白い包帯
山の斜面に立つあさま山荘は3階建て。5人は包囲した警官隊を見下ろし、中から散発的に発砲した。にらみ合いを続ける一方で、警察は犯人の母親を現場に呼び、投降するよう説得を試みた。
母親は、元長野県警幹部の著書によると、こう呼び掛けた。「これではあなたが日常言っていた、世の中の救世主どころじゃないじゃないの」「こうなった以上、最後はあんたたちが普通の凶悪犯と違うところを見せてほしいの。武器を捨てて出てきてね」
しかし犯人側は無視。別の日の説得時には、母親の乗った車に発砲したこともあったという。
膠着状態が続く間、非常用食料として配布された「カップヌードル」を食べる機動隊員らの姿がテレビで繰り返し放映されると、生産が追い付かないほどの大ヒット商品になった。事件は「一種のスペクタクル」(国松さん)として国民の関心を呼んだ側面もあり、NHKと民放を合わせた総世帯視聴率は89・7%(ビデオリサーチ、関東地区)を記録した。
動きがあったのは28日。警察は巨大な鉄球をぶつけて山荘の外壁を壊し、強行突入。破壊してできた穴から催涙弾を内部に撃ち込み、高圧の水を放出しながら機動隊員が突っ込んでいった。
犯人は発砲を繰り返し、警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視=当時(47)=と特科車両隊の高見繁光警部=同(42)=が、銃撃を受けて殉職した。
国松さんは、目の前を担架で運ばれていく内田さんの姿を今も鮮明に記憶している。警視庁の道場で剣道をした仲間だ。頭に巻かれた白い包帯が、真っ赤に染まっている。「痛恨の極みですよ。警備の責任者からしたらこれは大失敗。殉職者を出しちゃいかんのです」。無念さは今も消えない。
▽日本警察の伝統「撃たれても逮捕せよ」
にらみ合いのさなか、山荘に近づき、人質の身代わりになろうとした民間人1人も射殺された。事件の死者は3人に上った。一方、犯人側は誰ひとり死んでいない。
国松さんによると、警察側は犯人に向かって一発も銃弾を撃っておらず、あくまで威嚇射撃止まりだった。「日本警察の昔からの伝統。撃たれても何とか逮捕するというのが日本流なんです。他の国ではこうはならないでしょう」と解説する。その理由の一つは「(容疑者を)司法の場に持っていき、そこで白か黒か決着をつける。それが俺たちの仕事だと警察官は常に考えているからです」と言う。
夕方、人質の女性が救出された。国松さんが叫んだ「人質確保! 生命に異常なし!」の声はテレビ、ラジオを通じて全国に流れた。続いて機動隊員に両腕を抱えられて出てきた犯人5人は、みな放水による水をかぶって顔が紅潮し、湯気が立っていた。うち2人は未成年だった。
「けが一つしていないし、ある意味ではきれいな顔なんです。わが方は2人殺されているわけですよ。民主警察というのはつらい警察だなあと思いました。本当につらかった。涙も出たが、これでいいんだと自分に言い聞かせました」
国松さんは「殉職者を出した警備実施が成功だったとは絶対に言えない」と話す一方で、「人質は無事で5人の犯人を逮捕したという結果を生んだ日本の警察の忍耐、力量は評価されてしかるべきものだと思います。国民のみなさんに納得してもらえる結果ではあったと思う」と振り返る。
▽過激派時代の終焉
あさま山荘事件の後、連合赤軍が群馬県の山中で「総括」と称した集団リンチを繰り返し、仲間12人が死亡していたことが判明する。国松さんは連合赤軍が起こした一連の事件が「極左過激派の時代の終焉」になったとみている。
「こんなことをやる者が社会正義の実現とか理想的な社会をつくる運動だとか言っているのはざれ言であると、社会から完全に否定的な評価を受けましたね」
逮捕された5人のうち4人は、死刑などの有罪判決や少年院送致の処分が確定した。しかし残る坂東国男容疑者(75)は公判中、超法規的措置により出国した。日本赤軍が起こしたクアラルンプール米大使館占拠事件で、メンバーが人質解放と引き換えに坂東容疑者らの釈放を日本政府に要求し、政府が応じたためだ。坂東容疑者は今も逃走。行方はようとして知れない。
▽オウム真理教事件との「共通性」
国松さんが警察庁長官を務めていた95年3月20日、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。10日後には国松さん自身が何者かに銃撃され、一時重体に。オウム真理教の関与が取り沙汰されたが、真相は不明のままだ。
連合赤軍による一連の事件とは性質も形態も異なるが、国松さんは「ある点で共通性はあるのではないか」と指摘する。
オウム真理教は「ポア」と称し、殺人を繰り返した。連合赤軍がリンチ殺人を繰り返した際は「総括」と称していた。「目的が正しければ、手段は多少おかしくても構わないと考えている人たちが極限の状況に追い込まれ、取るべき手段の選択肢が少なくなった時にどうするか。その一つの例が連合赤軍であり、一つがオウム真理教」と語る。
一方で国松さんは「(イデオロギーや誇大妄想から殺人の実行行為への)飛躍を生む力とは何だったのかが分からない」と付け加えた。「刑事事件としては終わったかもしれないが、客観的な事件の総括はまだなされておらず、もやもやしたものが残る。そういう意味では事件はまだ終わっていない」