<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(13)虐殺情報に動揺した在朝日本人と総督府

被災地には数多くのビラやポスターが出回った。流言蜚語を戒めるものもあり、それほどデマが広く流されていたことを示している。(警視庁『大正大震火災誌』口絵)

報道管制下の朝鮮にも帰還者などを通じて虐殺の事実が伝わった。動揺の広がる中、朝鮮から現地調査員が派遣される。悲嘆にくれる人々の姿を捉えた作家もいた。学生時代の中島敦である。(劉永昇

◆朝鮮で流れた流言蜚語

関東大震災時に在朝日本人の間でも、三・一独立運動の時と同様に「自警団」を組織する動きが広がったことは前に述べたが、注目すべきは、このとき内地と同じ流言蜚語が流れたことだ。

当時、総督府警務課長だった丸山鶴吉の回顧録によれば、

「朝鮮人が水道に毒薬を投じたとか、あるいは密かに武装して蜂起の計画の流言が飛び、(中略)、釜山においてすら日本刀を携えて水源地を守る者さえあるに至った」(『五十年ところどころ』)

そして政務総監・有吉忠一は、

「鮮人虐殺の報に一般鮮人が興奮の余り、報復的に在留邦人の虐殺をやりはしないかということであった。(中略)無類の鮮民が暴行の端を開き、それがモッブ(群衆)化して全半島に蔓延し随所に内地人虐殺が行われる様な事になったら、二個師団の兵力では誠に心細い」(「有吉忠一関係文書」)

それを「非常に心配」したという。

日本で朝鮮人が感じていたその同じ恐怖を、この時有村らは感じていた。危機を回避すべく、丸山は9月18日付けで朝鮮全道知事にあてて自警団解散の命令を下す。むやみに朝鮮人を刺激して、もし抵抗闘争が始まれば、数で劣る日本人の被害は多大になると判断したのだ。(西村直登「関東大震災に対する朝鮮社会の反応」)

京城(現ソウル)の繁華街・本町。日本の百貨店なども多く進出していた(大正期の絵葉書より)

◆朝鮮からの現地調査

一方、震災直後の9月2日には、『東亜日報』編集局長・李相協が、内地渡航者の家族400人から安否確認の依頼を受けるかたちで、日本に向けて出発していた。

3日に釜山から下関、5日には大阪に到着した李相協は、船で横浜に向かった。被災地で精力的に情報収集をする中で、彼は事態の真相を理解する。

9月13日、帝国ホテル第148号室で外務省アジア局第三課長・坪上貞二と元外務省通訳官で記者の小村俊三郎と面談した李は、震災下で起きた朝鮮人“迫害”の原因について、次のように話している。

・朝鮮人を被征服者と見なし、常時彼等を蔑視し下等民族とする習性があったこと
・内地の新聞紙上において、朝鮮人と言えば常に独立運動、不逞の徒としてのみ日本に紹介してきたこと
・多数の朝鮮人労働者が渡航してきたことにより、日本人労働者の間で嫉妬反感の感情を醸しつつあること
・人心が興奮状態にあった時、責任当局が流言飛語の拡散防止に努めなかったこと

(日本政府震災朝鮮人関係文書「李相協(東亜日報社)談話要領」、『現代史資料』6)

李相協は、陸軍被服廠跡地(現在の横網町公園)に避難して罹災した朝鮮人は14、5名に過ぎなかったという警察の談話からみて、地震で「圧死」または「焼死」した者がいたにせよ朝鮮人の「大多数は殺害せられたるもの」という結論に至る。

そして、軍・警察・青年団(自警団)等の迫害行為は「全く常軌を逸せるもの」であり、日本政府は「誠意をもって陳謝」すべきとし、さらに「事態の真相を率直に公表」し「激越の行為に出でたる者は之を適宜処罰する」よう求めた。

◆植民地・朝鮮の慟哭を描いた中島敦の小説「巡査の居る風景」

京城中学を卒業後、帰国した中島敦は1926年4月、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学した。小説「巡査の居る風景」は、肋膜炎を患って1年間一高を休学した後、『校友会雑誌』322号(1929年)に掲載した短編である。いわゆる習作にあたるもので、「一九二三年の一つのスケッチ」という副題が付けられている。

登場人物の一人、京城の淫売婦・金東蓮が客に身の上話をする。
「亭主が死んで身寄りがなくなって」仕方なく今の仕事をしていると語る彼女に、客が夫はいつ死んだのかと尋ねる。

――此(こ)の秋さ。まるで突然だった。
――何だ、病気か?
――病気でも何でもない地震さ。震災で、ポックリやられたんだよ。
(中略)
――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行ってたのか。
――ああ、夏にね。何でも少し商売の用があるって、友達と一緒に、それも、すぐ帰るって東京へ行ったんだよ。そしたら、すぐ、あれだろう。そしてそれっきり帰ってこないんだよ。
(中略)
――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
――エ? 何を。
――おまえの亭主は屹度(きっと)、…………可哀そうに。 (「巡査の居る風景」)

女はその夜、血にまみれておどおどと逃げ惑う夫の姿を夢に見る。やがて夜明けとともに街路に飛び出し、通りすがりの人々に向かって、

「みんな知ってるかい? 地震の時のことを。……奴等はみんなで、それを隠しているんだよ」

と呼ばわり、ついに巡査がやって来る。
朝鮮人巡査に武者振りつきながら女は、「何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに」と涙をポロポロと流しながら叫ぶのである。

◆中島敦の〈朝鮮〉体験

植民地という異空間で少年期を送った中島敦は、外地の風景に置かれた内地人であった。そんな彼にとって関東大震災とは、何よりも朝鮮人が日本で虐殺された事件のことだった。それは内地の文壇作家が誰一人として書き得なかった主題だった。

中島敦(1909-1942)(『日本文学全集』新潮社より)

短編「巡査の居る風景」を書いた時点で中島はいまだ文学者志望の学生に過ぎなかった。

しかし彼はその後も朝鮮や中国を題材にした作品を書き、パラオに赴任して以後は、一連の南洋ものを発表する。ある時期まで彼のまなざしは、植民地という〈土地〉に根ざしながら、そこに生きる人間を(支配者たる日本人も含めて)複眼的にとらえようと試みていた。

後に中島の全集を編纂する一高同窓生・氷上英広によれば、中島自身はこの作品を単体で発表すると「左翼のように思われる」ので、「毒消し」のために別の作品を同時に掲載したという(小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』)。

震災後6年にして復興の進む帝都の言論空間は、そのようなものであった。(敬称略 続く 14

劉 永昇(りゅう・えいしょう)
「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。

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