連載小説=おてもやんからブエノスアイレスのマリア様=相川知子=第13回

日本のテレビ番組「世界ふしぎ発見」第1222回、一番遠い親日国アルゼンチンに渡ったサムライ2012年3月10日放送で取材を受けたティントレリア・ノエミの湯浅夫妻。その時のレポーターと一緒に記念撮影。最初ブラジルに渡り、アルゼンチンに移り洗濯屋を営んでいた叔父湯浅馨氏の呼び寄せで、1950年にアルゼンチンに来た湯浅安伸氏と1955年花嫁移住の湯浅雅代氏。店舗に飾ってあった。2021年まで営業(湯浅家提供)

13 子どもたちの教育と近所づきあい

 戦争が勃発し、アルゼンチンは最後まで参戦しなかったけれども、結局は敵性語、敵国の言葉を習っているとして日本語学校は閉鎖に追いやられた。校舎を没収された学校もあったそうだ、かわいそうなことだった。
 それでもどこかの家庭の持ち回りで国語教育は続けられた。日本人が集まっているという評判になり監査の人が来れば決まって、この子たちは日本語ではなくスペイン語を習っているのだという口裏を合わせることになっていた。
 事実、家庭では日本語ばかり話すため、学齢期にスペイン語即ちアルゼンチンの国語のレングアの補講を、言葉だけではなく算術やいろいろな課目のためにしてもらわなければならない児童も多くいたからである。
 その頃私は子宝にまた恵まれた。そのためできる限りのことをしていた。例えば、預けられた背広の袖のボタンが取れかかっていると縫い付けてやるなど細かい作業をした。洗濯屋だから洗濯をすればいいのであるが、そんなところがほつれていれば気になるし、そのまま返すわけにはいかないと思った。
 それにときには型崩れをする衣類もあったね。そんな場合には特に知らせてあげたよ。こんな悪い素材の物を買っちゃあだめですよってね。洗濯前にポケットなどを点検するんだが、ある日よく膨らんでいるので手を入れると、お札でいっぱいの財布がごっそり入っていたこともあった。
 アルゼンチン人の洗濯屋でそんなことをしたら、背広を取りに来たとき、財布なんてありませんでした、さあ、どうしたんでしょうね、とそれで終っちまうよ。もちろん私は財布を取り出して、洗濯が終わったらまた元通り入れて返した。
 当たり前のことをしていただけだったが、後にご夫妻そろって綺麗な身なりで、丁寧なお礼を言いに来てくれてびっくりした。ちゃんとしている人はしているんだねぇ。
 それを見た人達がいて、ハポネは勤勉で誠実な仕事をしている評判がさらに広まり、これが呼び水となり、私たちのティントレリアハポネサ、日本人の洗濯屋は繁盛し続けた。だから、またバカ正直に働くしかなかった。そんな時代だった。
※注「ハポネ」スペイン語で日本人という意味(japonés)であるが、最後のs は子音のみなので、日本人の耳には聞こえない。ちなみに複数形 japoneses も日本人の会話の中では日本語の干渉もあり、またスペイン語の習熟度も関係して使われない/「ティントレリア」(tintorería)洗濯屋、今でいうクリーニング屋/「ティントレリアハポネサ」(tintorería japonesa)日本人経営洗濯屋

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佐藤四郎氏撮影在アルゼンチン同胞活動状況写真帖には1935年当時アグスティン・P・フスト大統領(1932―38)の肖像に「勤勉なる在アルゼンチンの日本人一同へ」とメッセージが自筆サイン入りで掲載佐藤四郎氏撮影在アルゼンチン同胞活動状況写真帖には1935年当時アグスティン・P・フスト大統領(1932―38)の肖像に「勤勉なる在アルゼンチンの日本人一同へ」とメッセージが自筆サイン入りで掲載
ブエノスアイレス市 Las Heras 1987に位置したエル・大和は店名入りの団扇を顧客に配った。思い出に数本はまだうちにあります、と故オラシヲ・タロウ氏夫人のステラ・セノ・ディアス氏ブエノスアイレス市 Las Heras 1987に位置したエル・大和は店名入りの団扇を顧客に配った。思い出に数本はまだうちにあります、と故オラシヲ・タロウ氏夫人のステラ・セノ・ディアス氏
エル・大和の店内で多くのアイロン職人がいた。1950年頃まで続いた(佐藤四郎氏撮影、Archivo Histórico de la Colectividad Japonesa. Asociación Japonesa en la Argentina)エル・大和の店内で多くのアイロン職人がいた。1950年頃まで続いた(佐藤四郎氏撮影、Archivo Histórico de la Colectividad Japonesa. Asociación Japonesa en la...
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