「ほな、好きなだけ飲んだろうやないかい!」糖尿病などを患い、医師から「確実に死に向かっている」と忠告されても、酒をやめられなかった。朝5時から飲み始め、記憶は飛び、支えてくれる人に絡んだ。
大阪市西成区の篠田直之さん(55)は、40歳ごろから酒浸りの生活を送り、アルコール依存症に苦しんだ。しかしビールの原料となるホップの栽培に生きがいを見いだし、700日以上、一滴も口にしていない。自暴自棄だった人生に何があったのか。(文と写真 共同通信=武隈周防)
▽親に抱っこしてもらった記憶がない
1966年に大阪市で生まれた。父は結婚していたが、婚姻関係がない女性との間の子だった。父の親戚は「苦労するだけやから殺してしまえ」と言い放った。ぬれたタオルで顔を覆われそうになったとき、父の妻がとっさに抱き上げ、助けられたと聞かされてきた。子どもの頃、親に抱っこしてもらった記憶はない。
高校卒業後、大阪市の中小アパレル企業に入社。バブル景気が間もなく始まろうとしていた。営業職として大手の得意先にも自社商品を次々と売り込んだ。知識では負けぬよう、手触りだけで素材が分かるようになった。他社の表示偽装を見破ると「目の前で作ってみい!」と工場まで乗り込んだ。
毎晩のように大阪の繁華街・北新地で接待し、週末はゴルフに付き合った。入社3年の頃に営業成績で社内ナンバー2になったが、無理がたたってひざを痛め、半年ほど入院した。退院後は売り上げを伸ばせず、会社を辞めた。
同業他社に移ってはいけないという暗黙のルールを守り建設会社へ。早朝から西成区のあいりん地区に立ち、現場に送る日雇い労働者を募った。当時請け負っていたのは地下鉄の工事。夜はゼネコンの社員らを接待し「酔うに酔えない酒」を浴びるように飲んだ。
34歳で結婚した。運送会社に転職し、子育てに適した環境を求めて郊外に居を構えたが、子を授かることはかなわなかった。35歳の時、覚醒剤所持容疑で逮捕された。妻とは数年で別居に。この頃から酒に歯止めがきかなくなった。
▽酔いつぶれて寝るまで飲んで、起きて、また飲んだ
運送会社も辞めて日雇い労働などで食いつないだが、次第に働く気力がなくなった。45歳で生活保護。保護費はほとんど酒に消えた。見かねた自治体のケースワーカーに、社会復帰プログラムを受けるデイケアを紹介された。週に5日、午前9時から午後3時まで。デイケアに通う時間は酒を口にしなかった。
そんな日々を過ごしていると「普通の人間になってしまって」、人をまとめたり指導したりする立場を任されるようになった。ただ、それでストレスが蓄積。1日の終わりに飲み屋に駆け込むようになった。酒量は増える一方。「ビール党」で、1日に20本くらい飲んだ。
徐々に体が受け付けなくなり焼酎に変えたが、今度は一升瓶を1日で空けていたという。肝臓が張ってくると、いすの角に背中をゴリゴリこすりつけて張りを“散らして”また飲んだ。
「酔いつぶれて寝るまで飲んで、起きて、また飲んで。物はようなくしたね。財布、携帯、通帳、印鑑…」。朝起きると頭をけがしていたことも。でも何も覚えてない。そんな状況が続き、周囲に促されて病院に行くと「アルコール依存です、認めてください」と通告された。47歳だった。
断酒会に行ったが「僕には響かなかったね」。仲良くなったら、やっぱり酒に流されてしまうと思い、参加者と距離を置いた。「長続きせんかったよ。酒をやめるつもりもなかった」
朝5時から開いている店でも飲んで、体はぼろぼろに。52歳の誕生日、別居中の妻に会いに行った電車の中で突然意識を失って倒れ、2日間昏睡状態が続いた。低カリウム血症と診断され、集中治療室(ICU)に運び込まれて2週間入院。医師には「篠田さんの人生、死に向かってますよ」と言われたが、退院後も構わず飲み続けた。
病院通いが続く中、西成区を拠点に福祉サービスなどを手掛ける「シクロ」の訪問看護を受け始めた。代表の山崎昌宣さんは当時の篠田さんについて「しらふの姿を見たことがなかった」と語る。
泥酔状態の篠田さんは、自宅を訪れるヘルパーらに暴言を吐き続けた。「俺の体が悪いおかげで、おまえらメシ食えてるんや」「おまえらの働き方はぬるい」。山崎さんは頭を悩ませた。
▽「一緒に頑張りましょう」
53歳のとき、糖尿病の治療で通っていた病院の主治医が代わった。主治医は初対面の篠田さんの目をまっすぐ見つめ、ゆっくりと語り掛けた。
「篠田さんだったらお酒をやめられるから、一緒に頑張りましょう。僕も頑張るから」。がっちりと手を握った。
振り返ると、この時が転機だった。「検査の数値だけでなく、僕自身を見てくれている」と心が震えた。「いい数値を出して、先生と一緒に喜びたい」という気持ちが芽生えてきた。
この頃、居酒屋で知り合った若い女性に誘われ、一緒に早朝のウオーキングを始めた。「ストレスになるようだったら、やらなくても構わないから」という言葉で気が楽になり、やる気が出た。生活のリズムが安定してくると、訪問看護師が来る日は酒を控えるなど、徐々に酒量を調節できるようになった。
新たな主治医になり、約4カ月たった2020年2月末。行きつけの居酒屋で飲んでいると、店のママが不意に言った。「3日間飲まずにいられたら、1万円あげる」
「よっしゃ、やったろうやないかい!」と腕をまくった篠田さん。“賭け”に勝った翌日、ある考えが頭をよぎった。「今また飲み始めたら、俺の価値が下がる」
篠田さんは、ついに酒をやめた。
▽苗に語りかけ、水をやる日々
その約2カ月後、篠田さんの自宅に届いたホップの苗が、断酒生活の大きな支えになっていく。
苗を送ったのはシクロ。18年に西成区に醸造所を構え、クラフトビールの製造販売に乗り出していた。新型コロナウイルス感染拡大で就労支援事業に在宅ワークを取り入れ、原料のホップを篠田さんら事業利用者の自宅で育ててもらうことにしたのだ。
福祉とは全く異なるビール造り。シクロが挑戦に踏み切ったきっかけは「酒好きのおっちゃんたちの説教」だった。「なんでわしらに酒を扱わせへんねん」。就労支援事業の一環で運営していたカフェが閉店し、モチベーションが下がっていた頃、事業の利用者らに山崎さんは詰め寄られた。
「朝から飲んでる専門家なんやから、酒のことならなんぼでもやったる」。それならと販売用に800本のビールを仕入れると、おっちゃんたちは3日で売り切った。「好きなことのために湧き出るエネルギーはすごい。いっそのこと、自分たちで造ろう」。山崎さんは酒造免許の取得などに奔走した。
醸造や販売をするチームの名称は「Derailleur Brew Works(ディレイラ・ブリュー・ワークス)」。フランス語で“道を外す者”も意味する「ディレイラ」を、“常識にとらわれない者”と解釈して名付けた。
醸造は専門のスタッフが担当。ボトルの洗浄やラベル貼り、梱包などは身体障害や精神疾患のある人たちが就労支援の一環として担った。
当初、篠田さんはビール造りや販売に興味を示さなかった。だが、酒をやめてからホップの苗を受け取ると「野々ちゃん」と名付け、毎日熱心に語り掛けて水をやった。ベランダの網に絡みつき、ぐんぐん成長する様子を見て「俺が育ててやらな」と、前向きに過ごせるようになった。
シクロがホップ栽培用の畑を作ることを聞きつけると、率先して参加し、畑の手入れをした。「毎日わくわくして、酒飲んでる場合ちゃうわ」。ぷっくりとしたホップを一つ一つ丁寧につみながら、血色が良くなった顔をくしゃっとさせて笑う。
篠田さんの変化を見守ってきた山崎さんは「今では他の人を引っ張ってくれる存在。想像以上に、良い方に裏切られた」と舌を巻く。
▽36歳で教会に行き、洗礼を受ける
酒を断ってから、篠田さんはしばらく足が遠のいていた大阪府内の静かな住宅地にある、小さな教会に通うようになった。
初めて訪れたのは36歳のとき。きっかけは覚醒剤で逮捕された際、拘置所で手にした1冊の本だった。
「極道」から足を洗い、キリスト教の伝道師になった男たちを描いた『刺青クリスチャン 親分はイエス様』。執行猶予付きの有罪判決が確定し、ぼうぜん自失の日々を送っていた時、自宅のポストに入っていたチラシに目を止めた。本に登場する牧師によるクリスマス伝道集会の告知。チラシを握りしめて向かった会場で、最前列に案内された。
こわもての牧師が説く教えに心が揺さぶられた。終盤、「イエス様のために祈りたいと思う人はいますか」と牧師が呼び掛けると、自然と手を挙げていた。祈りの後、「あなたの罪は全て許されました」と言われた。「自分の中にあるどす黒いものが、どろっと流れた気がした」
帰宅すると、当時は一緒に住んでいた妻が「別人みたいにさっぱりした人相になった」と驚いたという。翌月に洗礼を受けた。3年ほど教会に通ったが、酒に溺れるようになると、次第に行かなくなった。
▽心の底から
「何か問題を起こすと、戻ってくるんです」。当時から篠田さんを知る牧師の村田艶子さん(97)は語る。どんなときも決して問い詰めず、ひたすら篠田さんの話に耳を傾けてきた。
「私にはうそばかりついていました。お酒をやめたとか、たばこをやめたとか。本当のことは顔を見れば分かるんですけれどね」
篠田さんはあるとき、村田さんに問い掛けた。「なぜ僕みたいに繰り返し放蕩する人間を、この教会は受け入れてくれるんですか?」。村田さんは穏やかに言った。「神様は、たとえ自分を裏切った人でも愛します。あなたもキリストの弟子。愛されているんですよ」
その愛が重かった。「愛をもって接してくれてるのに、自分はうそをついてばかり。自己嫌悪の繰り返し。何かを成し遂げてから戻ろうって、そればかり考えていた」
今は心の底から悔い改め、堂々と通えるようになった。別居が続く妻とは時々、電話で近況を報告し合う。昨年、妻の親が倒れたときは、自身の経験を踏まえて介護の手はずを整えた。疎遠になっていた実家の母と姉とも連絡を取り合う。
「自分の栄光はどうでもええと気付きました」。一度は死の淵に立ったが、今は青空を見上げることができる。「生きてきて良かった」