唯一の邦人退避から3カ月、カブールに戻って住み続けると決めた タリバン支配下の生活―安井浩美のアフガニスタン便り(1)

 たった一人の退避者として自衛隊機内へ。自分は日本人なんだなと、日本の国旗になんだか胸がジーンとした。扉が閉じる瞬間「さよなら、カブールジャン(愛しのカブール)」、カブールとの最後のお別れかもしれないと思いながらも「絶対に帰ってくるぞ」と自分に言い聞かせた

 昨年8月15日、アフガニスタンのニュースが世界を仰天させた。20年ぶりのイスラム主義組織「タリバン」復権。戦闘も銃声もなく、足音すら感じさせず、タリバンはいきなり首都カブールを制圧した。20世紀末に恐怖政治を敷いてアフガン国民を震え上がらせたタリバンは、中部バーミヤン遺跡の大仏像を破壊したことでも有名だ。タリバン暫定政権発足から半年が過ぎ、カブールに暮らす私自身の生活や国の様子がどう変わったかを日本の皆さんにご紹介したいと思う。(共同通信=安井浩美)

 ▽独りぼっちの退避

 私は昨年8月27日、日本の自衛隊機でカブールから退避した唯一の日本人だった。なぜ私だけだったのか。アフガニスタンはもともと「渡航しないでください」という外務省の渡航退避勧告が出ている。そこで働く日本人はそもそも、ほとんどいなかったからだ。

 2021年8月、カブールからイスラマバードに到着した自衛隊機。上空では気を紛らわせようとスマホゲームをしていたら、あっという間に到着した

 自衛隊機の派遣は、渡航退避勧告下で、国際協力機構(JICA)や非政府組織(NGO)関係者らの日本人職員の渡航が制限され、日本人に代わり現地で事業を行っていた現地職員の脱出に重きを置いていたと思う。

 自衛隊法では邦人らの救出が自衛隊機派遣の前提条件となる。もし、今回邦人の退避者が誰もおらず、アフガン人職員が空港に到着し、離陸許可を取るために東京と連絡を取っている間にロケット弾や爆発でアフガン人職員が巻き込まれたりしたら責任重大だ。

 本当は、20年も住んだこの国から出ず、自宅に残りたかった。だが、日本大使館側からの説得もあり、人命優先との説明に納得して退避を決意して空港へ向かった。しかし、結果は「邦人一人」。一緒に乗っているはずの「アフガン人職員」は、どういうわけか誰もいなかった。

 ▽3カ月ぶりのカブール

 中学生の頃、NHKのシルクロード番組に夢中になった。砂漠を悠々と進むラクダの隊商をこの目で見たかった。アパレル会社を辞め、写真家として身を立てようと決心。1993年、シルクロードの拠点として栄華を誇ったアフガンを初めて訪れた。

 当時は内戦の真っ最中。避難民が隣国パキスタン国境近くのキャンプにあふれていた。大自然や遊牧民を撮りに来たはずが、レンズを向けずにはいられなかった。何度も足を運び、2001年の米中枢同時テロ後、米英軍によるアフガン空爆も取材した。これを機にカブールに移住して共同通信の通信員にもなり、取材先で知り合ったアフガン人の夫と結婚。現地で事業も営んでいる。

 自衛隊機でパキスタンの首都イスラマバードへ退避した後は、アフガンへ戻る機会をずっとうかがっていた。退避直後は夜も眠れず、夜中に目が覚めてはアフガンのことが気になり、スマートフォンのニュースに目を通す日々だった。アフガンで暮らした20年を振り返っては、柄にもなく一人で泣いたりもした。退避の時は、もう戻って来られないかもしれないという思いと、1カ月ほどで戻れるだろうという気持ちが行ったり来たり。結局、退避からおよそ3カ月後に民間機がカブールとイスラマバード間を飛び始めたこともあり、当初の予想よりは2カ月遅れでカブールに戻ることができた。

 退避時には、自宅があるのに帰れないという世界の難民の気持ちを私も味わった。日本で何不自由なく育った私も、20年も住み続けると、やはりアフガニスタンは第二の故郷だ。たった3カ月留守にしただけなのに、やっと戻れるという、はやる気持ちが高まった。

 イスラマバードを離陸して30分も過ぎると、もう眼下はアフガニスタンだ。褐色の乾いた山の上を飛んでいたかと思うと、土色の家屋が密集したカブールの街が見え始めた。1時間ほどの飛行でカブール国際空港に到着。うれしくて涙が出そうだった。

 イスラマバードからの機中、カブールに近づくと密集する土の家屋が見えてくる

 着陸し滑走路から駐機場に移動し、まず目についたのが空港にはためく白旗だ。今までは黒、赤、緑のアフガニスタン共和国旗だったのが、白地に黒字でコーランが書かれたタリバンの旗が10基以上ひるがえっていた。11月のカブールはやはり寒い。夏に退避したため夏物の服しか持っていなかった。

 ターミナルへバスで移動途中にも長髪でカラシニコフ銃を持ったタリバン兵の姿が目についた。まだ制服もそろわないようで、私服の兵士も多い。ターミナルビルは閑散としていて到着客が50人ほど。顔なじみの荷運び人と言葉を交わし、税関を抜け駐車場へ向かった。入国審査官も警備関係者も以前と同じ職員だ。ただ、制服ではなく私服での勤務だった。

 知り合いの女性警官は「タリバンから制服は着るなと言われた」と話した。悲しいかな、以前のようにゆっくりおしゃべりもできなかった。夕焼けを背に、空港でよく見ていた「I♥KABUL」の文字が妙に懐かしく思えた。

 ▽同じ街だけど何かが違う

 陥落時に比べ、人も車もタリバン兵の数も減ったなぁというのが3カ月ぶりのカブールの第一印象だった。8月の退避で20万人以上が国外に出たわけで、人が少ないのも納得できる。首都陥落当初は、地方から多くのタリバン兵がまだ見ぬ首都見物に来ていたので多く感じただけなのか? 皆地元へ帰ったのか、タリバン兵の数もずいぶん減っていた。

 

 旧政権から奪った国軍車両に乗ってカブールを巡回する多数のタリバン兵ら

 街は一見落ち着いて見えるが、グレーの制服を着た旧政権の警官を見慣れていたせいか、以前と同じ緑色の警察車両に乗る長髪でカラフルな民族服にカラシニコフ銃を持ったタリバン兵にどうも違和感を抱かずにはいられなかった。それは、それから半年たった今でも同じだ。

 自宅に戻るとカレンダーも8月のまま、時計も電池切れで止まっていた。その瞬間、3カ月前を思い出し急に脱力感に襲われた。一体あの騒動は何だったんだろうか、と今更ながらに思ったりした。留守宅を守ってくれていた門番もペットの猫や犬も皆元気でそれだけが救いだった。

カブールの自宅でペットと過ごす筆者

 退避時には、タリバンが自宅へ入って来るかもしれないと大切なものをいろんなところにしまったりして、戻った時にはどこにあるのか分からなくなっていた。

 今でも見つかっていないものが多々ある。ペシャワール会の現地代表で、凶弾に倒れた中村哲さんの記念切手もどこにしまったんだか、見つからない。一緒に退避した両親と祖父母の位牌は、一緒に戻ってアフガン製の仏壇に納めた。

 ▽音楽は禁止、とても多い女性への規則

 家事の中で洗濯が一番好きな私。というのもカブールの気候は、乾燥していて気持ちが良いからだ。日本にはない真っ青の青空もいい。アマゾンミュージックで1980年代のポップスをスピーカでつなげて聞きながら洗濯をバルコニーに干すのが日課だった。宗教音楽以外の楽曲を禁じるタリバン政権になってからはそれもできなくなった。家の中では聞いているが、外では聞くことができない。

 ほかにも、おしゃれ好きにはつらいことが多い。体の線を隠すためにブルカと呼ばれる頭からすっぽり覆うマント、もしくは、アフガンではヘジャブと呼ぶ黒色の足首まである黒いコートの着用が義務づけられたため、すてきな服を着ても人から見てもらえないのだ。

ブルカとヘジャブの女性ら タリバンが女性の着用を奨励するブルカ(右ブルーの集団)とヘジャブ(左の黒いコート)

 女性に対する規則は挙げればきりがなく、欲求不満になっている自分に気づく。ただ、あれもこれもいろんな規則がある割には、強制力が今のところはあまりなく、今までとあまり変わらぬいでたちで、街を闊歩(かっぽ)している若い女性も見かける。

 いつまでこの状態が続くのか気が気でない。男性はというと、以前のようにしゃれた服装でいるとタリバンに嫌がらせを受けるので、多くが民族服のペラン・トンボンを着用している。

 ▽和平と平穏を祈る毎日

 何げなく毎日を過ごしているが、常にどこか緊張している自分がいる。私の住んでいる地域で、タリバンがリストを作って旧政権時の警官や軍人を探している。なぜなのか? 理由は分からないが、これまでも多くの治安関係者が拘束されたり殺害されたりする事件が各地で起こっている。

 唯一抵抗勢力がタリバンへ攻撃を仕掛けている北部パンジシール州での戦闘が激しくなっているせいか? 街で見かけるタリバン兵の姿も多くなり、カブールの至るところで夜な夜な「タリバン狩り」が行われ、タリバン兵も命を落としている。犯人は、抵抗勢力なのかそれとも過激派組織「イスラム国」か? 誰なのかもよく分からない。そのために街の至る所に検問所も増え、なんだか嫌な雰囲気になってきた。

 

 タリバン兵も笑顔を見せる。肩まで伸ばす長髪の兵士も多い。本当は、髪は真ん中分けで両耳に掛けなければならない決まりだ

 アフガニスタンでは、冬の間は寒さが厳しく休戦状態になるが、春に向かい戦闘は再び激しくなるのが通例だ。今年の春は今までと状況が異なり、タリバンと抵抗勢力との戦闘は免れない状況だ。

 私を含めアフガンの人々も戦闘はもううんざり。それでも、戦闘以外に解決方法が見いだせない今の状況を打破するには、戦闘も仕方がないとの見方をする人も多い。

 今年は、アフガンの今後を左右する特別な春になりそうだ。仏壇に線香とろうそくを立て、毎日、アフガン和平と日々の平穏を祈るのが新しい日課となった。両親と祖父母の位牌を仏壇に戻した時から、私はここカブールで事の成り行きを見守ろうと心に決めている。

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