<日々全力 瓊浦高バド 林貴昭監督(3)> 転機 母校からオファー

1999年イタリアオープンのダブルスで準優勝した林(左)と西山=長崎市、長崎新聞社

 長崎市生まれの林貴昭(48)がバドミントンと出合ったのは、小島小4年のころ。経験者だった母の影響でラケットを握ると、徐々に才能の片りんを見せ始めた。
 瓊浦に進んだ高校時代は県のタイトルをほぼ独占。当時の恩師で、現在は教頭を務める佐藤一司(60)は「ストイックで負けず嫌いな選手だった。最初の方の公式戦で負けて泣いたのが印象深い。高い目標を掲げ、それに向かって努力できる少年だった」と振り返る。
 競技者として順調に力をつけ、日体大では主将を任された。さらに実業団の日本ユニシスに進み、その初年度、日本代表として約18カ国を転戦。世界ランキング34位となり、33位までが内定する1996年アトランタ五輪のリザーブ選手になった。残念ながらあと一歩で五輪を逃し「これからどうしようか」と迷っていたころ、届いたのが地元・長崎からのオファーだった。
 選手として競技力向上に貢献しながら、部活動の指導もする「県スポーツ専門員」の第1号として戻ってほしい、という内容。「古里への思いが強くなった」。97年、Uターンを決意した。
 長崎に戻るなら当然、母校の瓊浦へ-。勝手にそう考えていたが、現実は違った。自ら売り込んでみたが「県立校で修行してこい。縁があればまた会おう」とあっけなく断られた。「ショックだった。絶対に見返してやる」。心に誓った。
 県体協(現県スポ協)職員を経て、99年に西陵で高校教諭となってからは、毎朝学校に一番乗りして10キロ走や筋トレをこなした。日体大の後輩の西山勝也(46)=諫早商高教=とペアを組み、同年の全日本社会人選手権で実業団勢を抑えて優勝。国際大会も出場した。
 「すごい先生」を慕って生徒も朝練を始めた。一流のプレーを見せ、遠征を重ねて意識を引き上げた。ジュニアクラブもつくり、継続して選手が集まるようになった。県高総体は2002~14年に13連覇を達成。計4回も全国8強に導いた。そして転機が訪れた。15年、一度は門前払いされた瓊浦から「帰ってきてほしい」と声が掛かった。
 満を持して42歳で母校へ。それから結果を出すまで時間はかからなかった。「西陵の16年があったからこそ、今の自分がある。一生懸命やったことが生きた」。回り道ではなかった。(敬称略)


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