元ロッテ・アルトマンの「世界を股にかけた素晴らしいキャリア」

日本時間2月22日、メジャーリーグ公式サイトのアンソニー・カストロビンス記者はジョージ・アルトマンの「世界を股にかけた素晴らしいキャリア」を紹介する特集記事を公開した。アルトマンはメジャーリーグの世界で2年連続のオールスター・ゲーム選出を含む9年間プレー。その前にはニグロリーグ、その後には日本プロ野球のロッテや阪神でもプレーした。カストロビンス記者は「アルトマンは全てを見たわけではないが、野球の歴史上の誰よりも全てを見ることに近付いた男かもしれない」と記している。

大学時代まで野球よりもバスケットボールに熱中していたアルトマンは、膝に故障を抱えたことにより野球の道を選択した。大学関係者にニグロリーグのカンザスシティ・モナークスを紹介してもらい、野球選手としてのキャリアをスタート。当時のニグロリーグは衰退期にあり、アルトマンがモナークスに在籍したのも3カ月だけだったが、当時の監督だったバック・オニールがカブスのスカウトになったことがきっかけで、カブスに入団することになった。

マイナーのB級からスタートし、陸軍に徴兵されたことにより1957年シーズンを全休、1958年もシーズンの一部を欠場したものの、コロラド州フォートカーソンの基地では野球とバスケをプレー。1959年にメジャーデビューを果たし、1961年は打率.303、27本塁打、96打点、OPS.913、翌1962年も打率.318、22本塁打、74打点、OPS.904の好成績を残し、2年連続でオールスター・ゲームに選出された。1961年のオールスター・ゲームではロベルト・クレメンテ、ハンク・アーロンとともに外野を守り、1961年8月4日のドジャース戦ではサンディ・コーファックスから1試合2本塁打を記録した史上初の選手となっている(メジャー史上3人だけ)。

1963年カージナルス、1964年メッツを経て、1965年からカブスに復帰。しかし、以前のような活躍はできず、メジャーとマイナーを往復する日々が続いた。そして、35歳にして太平洋を渡り、日本球界でプレーすることを決断。「足長おじさん」の愛称で親しまれ、8年間で通算985安打、打率.309、205本塁打、656打点、OPS.938をマークした。アルトマン自身が「キャリア最高の年だった」と振り返る1974年は41歳にして打率.351、21本塁打、67打点、OPS1.095の好成績を残したが、8月に大腸がんと診断され、出場は85試合のみ。がんを克服し、1975年は阪神でプレーしたが、化学療法で弱った身体は以前の輝きを取り戻せず、この年限りで引退した。来月89歳になるアルトマンは「もし、がんにならなければ、今でもプレーしていたかもしれない」と話している。

カストロビンス記者によると、ニグロリーグとメジャーリーグ(ここではア・リーグもしくはナ・リーグのことを指す)の両方でプレーした選手は史上87人だけ。また、ニグロリーグ、メジャーリーグ、日本プロ野球の全てでプレーした選手はドン・ニューカム、ラリー・ドビー、そしてアルトマンの3人だけである。現役時代にはパナマやキューバのウィンターリーグでプレーした経験もあり、引退後には野球ではないものの「ホースシューズ」という馬蹄を投げるスポーツの大会にも参加するようになった。決してスーパースターではなかったが、数多くのリーグで実力を発揮し、十分な活躍を見せたアルトマンのキャリアを、カストロビンス記者は「世界を股にかけた素晴らしいキャリア」と称えている。

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