アメリカの宇宙飛行士による初の地球周回軌道飛行から今年で60年

【▲ 宇宙船「フレンドシップ7」の飛行中に撮影されたジョン・グレン宇宙飛行士(Credit: NASA)】

1962年2月20日ジョン・グレン宇宙飛行士を乗せた宇宙船「フレンドシップ7」がケープカナベラル空軍基地(当時)から打ち上げられました。今年2022年の同日、アメリカは同国の宇宙飛行士による初の“地球周回軌道飛行”から60年目を迎えました。

1960年代、冷戦状態にあったアメリカと旧ソ連はミサイルと表裏一体であるロケットの開発に注力していました。1957年10月には旧ソ連が人類史上初となる人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、アメリカをはじめとした西側陣営にスプートニク・ショックがもたらされます。

スプートニク1号に遅れること3か月、1958年1月に人工衛星「エクスプローラー1号」の打ち上げに成功したアメリカは、アメリカ航空宇宙局(NASA)の有人宇宙飛行計画「マーキュリー」のもとで宇宙船とロケットの開発を推進。1959年4月には「マーキュリー・セブン」として知られる7名の宇宙飛行士が選抜されました。

【▲ マーキュリー計画の宇宙飛行士「マーキュリー・セブン」。グレンは前列右から2人目(Credit: NASA)】

同計画初の有人飛行はアラン・シェパードによって実施されることになりましたが、世界初の称号は再び旧ソ連が手にすることになります。1961年4月12日ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士を乗せた有人宇宙船「ボストーク1号」が地球を1周して帰還することに成功したのです。

関連:人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの飛行から今年の4月12日で60年

シェパードによるアメリカ初の有人宇宙飛行はボストーク1号の飛行から3週間余り後のアメリカ東部標準時1961年5月5日(日本時間5月6日)に実施されましたが、この打ち上げに使われた「レッドストーン」ロケットには、マーキュリー計画の有人宇宙船を地球周回軌道に投入できるだけの能力がありませんでした。

そのため、シェパードを乗せた宇宙船「フリーダム7」サブオービタル飛行(弾道飛行)を行った後、打ち上げから15分後には大西洋上へ着水しています。シェパードに続き1961年7月に飛行したヴァージル・“ガス”・グリソム「リバティ・ベル7」も同じくレッドストーンで打ち上げられ、弾道飛行を実施しました。

関連:アメリカの宇宙飛行士による最初の有人宇宙飛行から今年で60年

【▲ フレンドシップ7に乗り込むグレン飛行士(Credit: NASA)】

“人工衛星”として地球を周回する有人宇宙船をアメリカが打ち上げる時は、翌1962年にやってきます。グレンが乗るフレンドシップ7の打ち上げには、前年から無人飛行やチンパンジーを乗せた飛行でテストが重ねられてきた、より強力な「アトラス」ロケットが採用されました。

当初1月27日に予定されていたフレンドシップ7の打ち上げは、飛行の観測を妨げる厚い雲が広がったことで13分前に中断。その後も機械的および天候の問題による延期が続きましたが、アメリカ東部標準時2月20日9時47分、ついに歴史的なグレンの飛行が始まります。

【▲ フレンドシップ7を搭載したアトラスロケットの打ち上げ(Credit: NASA)】

フレンドシップ7を搭載したアトラスロケットは、打ち上げから2分余り後に3基のうち2基のエンジンを分離。残る1基のエンジンで飛行を続けたアトラスは、打ち上げから約5分後にフレンドシップ7を分離しました。この瞬間、ジョン・グレンは地球周回軌道に到達したアメリカ初の宇宙飛行士となったのです。

地球を周回しているあいだ、グレンは宇宙船の姿勢を手動で制御しつつ、無重力状態の船内における自身の調子や船外の様子、システムの状態などを地上に報告。ロケットから分離された直後には宇宙からフロリダ半島も撮影しました。また、飛行中唯一の食事であるチューブ入りのアップルソースを摂りつつ、消化を調べる実験の一環としてキシリトールの錠剤を服用しています。

【▲ 打ち上げ直後にグレンが撮影したフロリダ半島(Credit: NASA)】

グレンを乗せたフレンドシップ7は地球を3周後、3つのエンジンが組み込まれた逆噴射装置を使って減速し、大気圏に再突入しました。実はこの時ケープカナベラルの管制センターでは、着水時の衝撃を和らげるためのエアバッグがすでに展開している可能性が疑われていました。エアバッグの展開を示す信号が誤って送られていたことが飛行後に判明しますが、もしもエアバッグが展開されていた場合、宇宙船を大気圏再突入時の高温から保護する耐熱シールドが本来の位置から外れてしまう恐れがあったのです。

そのため、本来であれば大気圏再突入前に切り離される逆噴射装置を、フレンドシップ7では切り離さないままにしておくことになりました。逆噴射装置は3つのストラップ(金具)を介して固定されており、宇宙船本体とともに耐熱シールドを挟み込むような位置に取り付けられています。逆噴射装置をあえて切り離さないことで、耐熱シールドが外れるのを防ぐことを期待しての判断でした。

【▲ フレンドシップ7の内部を覗き込むケネディ大統領(当時)とグレン飛行士(Credit: NASA)】

実際には耐熱シールドに問題はなく、フレンドシップ7はアメリカ東部標準時同日14時43分、打ち上げから4時間55分23秒後にケープカナベラル南東約1300kmの大西洋上(タークス・カイコス諸島グランドターク島の近く)へ無事着水。グレンはアメリカ海軍の駆逐艦「ノア」へ収容された後、ヘリコプターで空母「ランドルフ」に移乗して健康診断を受けました。

グランドターク島に上陸したグレンが就寝したのは、20日の朝に目覚めてから23時間以上が経ってからのことだったといいます。

【▲ ニューヨーク市におけるパレードの様子(Credit: NASA)】

グランドターク島にはマーキュリー・セブンの仲間リンドン・B・ジョンソン副大統領(当時)が到着。帰国後もジョン・F・ケネディ大統領(当時)との面会やアメリカ各地でのパレードなど、グレンは忙しい日々を過ごします。その後、グレンは1964年にNASAを離れ、1974年から1999年までオハイオ州選出のアメリカ合衆国上院議員を務めました。

いっぽう、グレンが搭乗したフレンドシップ7は回収後に20か国以上を巡回。翌1963年2月にグレンが身に着けていた宇宙服などと一緒にスミソニアン協会に譲渡され、現在は同協会の国立航空宇宙博物館に展示されています。

【▲ 1998年に実施されたSTS-95ミッションのクルー7名(Credit: NASA)】

なお、ジョン・グレンは2016年12月に95歳で亡くなりましたが、彼の宇宙飛行はマーキュリー計画の1回では終わりませんでした。1998年10月から11月にかけて実施されたスペースシャトル「ディスカバリー」によるSTS-95ミッションに、グレンは宇宙開発事業団(当時)の向井千秋宇宙飛行士らとともに参加しています。

STS-95ミッション当時のグレンは77歳。近年ではブルー・オリジンの「ニュー・シェパード」によるサブオービタル飛行でクルーの最年長記録が更新されていますが(ウィリアム・シャトナーさんの90歳)、地球周回軌道飛行を行ったクルーの最年長記録は今も更新されていません。

【▲ STS-95ミッションに向けた飛行訓練に臨むジョン・グレン(Credit: NASA)】

関連:マーキュリーからアポロまで支え続けた女性数学者 NASAが102年の生涯と貢献を振り返る

Source

  • Image Credit: NASA
  • NASA \- 60 Years Ago: John Glenn, the First American to Orbit the Earth aboard Friendship 7

文/松村武宏

© 株式会社sorae